2-5 逃亡
全速力で馬を走らせた。太陽が沈み切る前に、二頭の馬を見つけた。馬は鞍が付けられていたが、乗り手はいない。繋がれているわけでもなく、乗り手を失って彷徨っているように見える。
(まだ、遠くには行ってないはずだ)
ディエゴは足跡を追った。
やがて、コロラド川が見えて来た。
川沿いの岩場に隠れるように、エマとケイトがいる。ケイトは横たわり、ぐったりとしている。
ディエゴの姿に気付くと、エマは拳銃を抜いた。
蒼白な表情で、銃口をディエゴに向ける。
「……あと少しだったのに。アナタが追って来るなんて、思わなかった」
「そのために拳銃の扱いを教わったのか? ラファエルから逃げるために?」
「ううん。本当に、ただアナタと居たかったからよ。信じて、もらえないかも知れないけど」
「拳銃を渡せ、エマ」
「……これは自由への片道切符よ。ラファエルは、わたしたちを殺す。ここで捕まるわけにいかないわ」
「キミたちを捕まえに来たわけじゃない。疑うなら、撃て。おれも脱走者だ。ラファエルはきっとおれも殺す。でも、キミが信じてくれるなら一緒に逃げよう。今から、キミに近づくからな」
銃口を向けられたまま、ディエゴはゆっくりと歩いた。
エマは撃たなかった。ディエゴが近付くと、拳銃を下ろし悲しそうにうつむいた。
横たわるケイトが苦しげに、荒い呼吸を繰り返している。顔色は真っ赤で、額を抑える手の下に血がこびりついている。
「落馬したの。その時に頭を打って……」
「ケイト。聞こえるか?」
ディエゴが呼び掛ける。ケイトは少しだけ目を開けて、うなずいた。
「たぶん、熱にやられたんだろう。傷は大したことない。水を飲ませて、休ませてやれば大丈夫だ」
ディエゴは川に近付くと、ステットソン帽子で水をすくった。ケイトの顔を濡らし、傷口を洗い、水を飲ませた。しばらく休ませていると心なしか、顔色も良くなってきたように見える。
「すぐに日が暮れる。明日の朝までここで休もう。エマも、少し寝るんだ」
「寝てなんていられないわ。一刻も早く安全な場所に、ケイトを連れていかないと……」
「休むんだ。立っているのもやっとって顔してるじゃないか。それに、今のケイトを連れて川は渡れない。無理をして進むよりは、回復を待ってから移動した方が早い。このままじゃ仲良く溺れて死ぬのがオチだ」
「……そうね」
エマがため息を吐く。
「その方が楽なんじゃないかって思うわ」
「弱気になるな。ユニオン・パシフィック鉄道に乗れば北部なんてすぐだ。ラファエルだってニューヨークまでは追って来ない」
「他の、みんなはどうなった? 逃げ出してすぐに、捕まったみんな」
「死んだ」
どうやって死んだのかは、言わずとも察したのだろう。
エマは静かに、胸の前で十字を切った。
「馬鹿な真似をしたわ」
「後悔しているのか?」
「……みんな、故郷に帰りたがってた。わたしにはもう故郷はないけど、あんな場所で死にたくなんてなかったのよ。わたしたちの、誰も」
「おれだって同じだ。どうして一言、おれに言ってくれなかった」
「相談したら、一緒に逃げてくれた?」
即答はできなかった。ラファエルに捕まれば、必ず殺される。あの女たちのように残酷な拷問の末に。
自分にそんな勇気があるだろうか。ディエゴは自問する。
あるはずがない。もしも逃亡の計画を聞かされたら、きっと止めただろう。
昨日までの自分だったら。
「キミと一緒にいるよ。一緒に逃げよう。キミもケイトも、おれが守ってみせる」
「うん。ありがとう……ディエゴを信じる」
エマが横になったのを確認して、ディエゴは馬の手綱を掴んだ。
川の中に馬を入れて、足を冷やしてやる。
「何をしているの?」
「長距離を移動した時は馬の足に熱がこもるから、こうして冷やしてやらないとケガをする。本当ならリンゴとか角砂糖とか、馬が喜んで食べるものを与えるといいんだけど」
「色々知っているのね」
「親父や兄の受け売りだよ。おれたちの一家は何年も、南部を旅していたから」
「昔のこと、話してくれる気になった?」
「……キミが眠るまでの気晴らしなら」
ゴールドラッシュに惹かれアイルランドから移り、撃ち殺された祖父。アメリカ南部を旅した後に農場を構え、撃ち殺された父。父の仇を討つと復讐に燃え、撃ち殺された二人の兄……ディエゴの家系はいつだって不運に付きまとわれて来た。不幸の女神に愛されていると、兄のモーガンは言っていた。
たったひとり生き残った家族、バージルに何も告げずに家を出たこと。奪われる側から奪う側に回ろうと思ったこと。無法者に堕ちてでも、名を上げて腕を磨こうとしたこと。結局はラファエルの元で、怯えて暮らすようになったこと。
「何をやってもうまくいかないんだよ。おれたちの家系は」
かつての兄のように、ディエゴは自嘲気味に呟いた。その頃にはエマも、固い地面に横たわり寝息を立てていた。
日が沈み、荒野は暗闇に包まれた。空には雲一つなく、満天の星と三日月が浮かんでいる。
左手にドラグーンを握り、ディエゴは周囲への警戒を怠らなかった。
(ラファエルは必ず、追って来る)
川を渡れば、ひとまずは足跡が偽装できる。川を渡ったら、馬を手放してもいい。泥のついた足で歩かせれば、追っ手は目立つ足跡を追うかも知れない。まさかディエゴたちが馬を捨てて歩くとは思わないだろう。
問題は追い付かれる前に、どれだけの距離を稼げるかだ。
だが、ラファエルの動きは予想以上に早かった。
かすかに地鳴りの音がする。ディエゴは目を覚ました。夜の暗さは薄れている。じきに朝が来るだろう。いつの間にか眠っていた。
(……馬の足音だ)
意識が覚醒する。
ディエゴは切り立った岩の上に立ち、赤茶けた大地の向こうを睨んだ。
四つの馬が砂煙を上げて走っている。まだかなりの距離があるが、間違いない。カルロス、ビル、スワローだ。
三人を引き連れて、先頭を走るのはラファエル。
「やっぱり、追って来たか……」
ディエゴはステットソン帽子を深くかぶり、岩の上から飛び降りた。
「エマ、ケイト! すぐに起きろ! 逃げるぞ!」
大声で呼び掛ける、エマとケイトはぐっすりと寝入っており、うめくような声を上げた。
「急げ! 川を渡る!」
二人とも疲労困憊としており、顔色が悪かった。ケイトにしてもまだ満足に動ける状態ではないだろうが、急がなければならない。追い付かれれば、殺される。
ケイトとエマを馬に乗せ、ディエゴは馬の手綱を握ったまま泳いだ。コロラド川の流れは速く、渡り切る頃には、対岸に四人の姿が見えた。
馬鞍のホルスターから、ラファエルがウィンチェスター・ライフルを抜いた。
ラファエルがライフルを顔の横で構える。片目をつむり、狙いを付ける。
「馬を降りろ!」
ディエゴが叫んだ。だが、遅かった。
撃たれた馬は、二人を乗せたまま倒れた。馬の下敷きになり、エマとケイトが悲鳴を上げる。
じたばたともがき、やがて馬は動かなくなった。馬の死体を押しのけて、下敷きになった二人を助ける。
ディエゴを追って、ラファエルたちも川を渡っている。
(……逃げられない!)
いくら急ごうと、人の足で馬に勝てるはずがない。川を渡った四人に、すぐに追いつかれた。
カルロス、ビル、スワロー。ラファエル。四人はディエゴとエマを囲むと、手にした拳銃をそれぞれ向ける。
ディエゴも片手でドラグーンを構えた。
「銃を捨てろ、ディエゴ」
馬上でラファエルが言う。
怒り狂っているだろうと、ディエゴは思っていた。
しかし、ラファエルは唇を歪めて頬を緩め、愉悦の表情を浮かべていた。
「聞こえないのか? 銃を捨てろと、わたしは言ったぞ。それとも理解できないか? カルロス」
ラファエルが合図を出した。瞬間、カルロスが拳銃を抜いた。
発砲音。
ケイトが、のけぞった。
血を撒き散らして、ケイトが倒れる。
胸を一発で撃ち抜かれていた。エマが息を呑む音が聞こえた。
反応が遅れた。衝撃の後、ディエゴは拳銃を構え直したが遅かった。ビルが背後から近づき、ディエゴを殴りつける。ディエゴの撃った一発は地面をえぐった。
よろめいたところを、拳銃を持った左手を抑えられる。手首をひねりあげられ、ドラグーンを奪われた。
「さて……散々、手間をかけさせてくれたな」
馬から降りたラファエルが、ディエゴに近付く。あごを思い切り掴まれた。ギリギリと、ラファエルの爪がディエゴの顔に食い込む。
「どうしてわたしを裏切るような真似をした? 何が気にいらないんだ? ええ?」
ラファエルがドラグーンを受け取る。拳銃のグリップで殴られた。釘をハンマーで打つように何度も、繰り返しディエゴの顔面を殴打する。皮膚が裂けて血が滲み、視界が真っ白になる。
「痛いか? ちょっと小突いただけだろう? 裏切られたわたしの心はもっと痛いんだ。少しはその痛みを――」
みぞおちを思い切り殴られた。息が詰まる。髪の毛を掴まれ、地面に引きずり倒される。
「お前にも味わってもらわないとな」
胃液がこみ上げて来る。地面に吐いたツバと血の中に、折れた歯がっ混じっていた。
「なあディエゴ。お前には特別、目をかけてやったな。どうしてだかわかるか」
ラファエルがしゃがみこみ、倒れたディエゴの首筋に冷たい何かを押し付けた。
うつぶせに倒れたままのディエゴからは、ラファエルの動きが見えない。ガチャリと、撃鉄の上がる音が聞こえる。
――銃口だ。ディエゴの首筋に押し付けられている。
「わたしたちはファミリーなんだ。お前は役立たずの、臆病者の、ディエゴだ。それでもわたしはお前に特別な才能があると信じていた。一皮剥ければ強盗団の誰にも負けない男になるだろうと、期待していたんだよ……なあ、どうして裏切った。悲しいよディエゴ。お前をこんな目に遭わせなくちゃならないんだからな。カルロス、やれ」
ラファエルが合図する。カルロスに髪を掴まれ、頭を持ち上げられた。息を飲んだ途端、顔面に何かがぶつかる。頭の中で火花が散った。
岩に叩きつけられた。溢れた血が目に入って、右目が開けられない。痛みに涙がこぼれた。耳鳴りが止まない。再び髪を掴まれ、無理矢理に立たされる。
「やめて、ラファエル!」
エマが叫ぶ。
「わたしが裏切ったのよ。わたしが全部、計画を立てたの。みんなをそそのかしたのも、ディエゴを仲間に引き入れたのもわたしよ!」
「お前は黙っていろ!」
ラファエルが怒りをあらわにして、叫んだ。エマに近付くと、彼女の金色の髪を乱暴に掴む。
「エマ。お前はそんな悪い子じゃなかっただろ? 誰の影響を受けたんだ……殺した女たちの誰も、自分が悪いとは一言も言わなかったよ。言えばそいつを殺すだけで許してやると言ったのに。まあ、
紅潮したラファエルの顔に、再び狂気じみた愉悦が浮かぶ。
「エマ。お前はいずれわたしの妻になるべき、特別な女だ。貴重な混血の女だからな。だから多少のわがままも奔放も許してやったが……甘やかし過ぎたわたしが悪いのかも知れない。罰を与えてやる。覚悟しておけよ」
「彼女から手を離せ、ラファエル!」
ディエゴが叫んだ。瞬間、カルロスに顔面を殴られた。
「どいつもこいつも……何かわたしが悪いことでもしたか? ファミリーの結託を守るために心を砕いているというのに、お前たちはわたしの気持ちを少しも理解しないな」
聞き分けのない子供を諭すように、ラファエルは言う。
「国には国の、州には州の、そしてファミリーにはファミリーの法がある。法を犯せば罰があるのは当然だ」
ラファエルが腰のベルトから、ナイフを抜いた。分厚い刃が陽光にきらめく。
「怯えるなよディエゴ。これは罰だ。部下であるはずのお前が」
地面に引きずり倒され、右腕を掴まれた。
ラファエルが刃を右手の甲に近付ける。
「わたしの女をさらって逃げたんだ。エマだけを罰するのはおかしいだろう。罰はお前も受けなくては」
刃の先端が、右手の甲に押し当てられる。必死に右手を引こうとするが、動かせない。
皮膚が破られて血が滲む。肉が引き裂かれた。激痛が走り、手のひらに血が溢れる。分厚い刃はゆっくりと、手の筋肉を引き千切って食い込んでいく。食いしばった歯の奥から、悲鳴が漏れる。
痛みで目の奥に閃光が散り、頭の中が真っ白になる。
「これは罰の証だ。罪人の刻印だ。忘れるなよディエゴ。お前が天国へ行こうと地獄へ堕ちようと、わたしを裏切ったお前は永遠の咎人だ」
やがて手のひらを貫通し、刃は岩を削る音を立てた。ラファエルが一気に刃を引き抜いた。痛みに悶絶し、今度は悲鳴も出せなかった。
「これでエマをさらった罰は済んだ」
痛みで気を失いそうだった。右手はピクリとも動かせない。もう二度と動かないのではと不安がよぎる。それどころか、このままでは死んでしまう。
「次はわたしから逃げた罰だ」
ラファエルの言葉に、背筋が凍った。
視界がぼやけて、前が見えない。わざわざ見せつけるように、ディエゴの眼前にそれを近づけて見せた。
「革紐だよ。ただの革紐だ。どうすると思う?」
革紐を受け取ったビルが、川辺でしゃがみこむのが見えた。
ビルは倒れたままのディエゴに近づき、革紐を首にきつく結びつけた。
水を吸ってじっとりと革紐は湿っている。首の次は両手両足も、背中側でくくりつけるように縛られた。
「濡れた革紐は不快か? そんなに嫌そうな顔をするな。すぐに乾くさ。これだけ晴れていればな」
ラファエルは雲一つない空を眩しそうに見上げた。
その時ようやく理解した。ラファエルがどうやって自分を殺すつもりなのかを。
革紐は乾けば縮む。縮めば首に食い込んでいく。少しずつ、太陽の熱が革紐を乾かす速度でゆっくりと。
最初は痛みを感じるだろう。革紐が喉に食い込んでいけば、やがては息ができなくなる。最後にどうなるかは、考えたくもなかった。
「顔色が変わったぞ。怯えるなよディエゴ。明日の朝まで生きていられたら、今回のことは許してやる。革紐が乾かなければ死なないんだ。お前の生死は天の気分次第だな。雨でも降れば、死にはしない」
ディエゴは泣く気にもなれなかった。
アリゾナに雨は降らない。
少なくとも、ほとんどの日は。
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