1-4 決闘


 太陽が沈み切る前に、全力で400ヤードの距離を駆け抜ける。

 洞窟にたどり着いたあたりで、太陽が地平線の底に沈む。ロジャーの言う通り逆光で見えなかったのか、一度も見張りに撃たれずに済んだ。

(やるぞ……エマを助けるんだ)

 ディエゴはコルトSAAを腰だめに構え、慎重に隠れ家へ入る。


 掌に汗が滲む。

 今さらになって、拳銃を一発も試し撃ちしていないことを思い出した。

 カルロスは屈強な無法者だが、丁寧に拳銃を整備するような男ではなかった。

 もし……もし、拳銃を撃って、不発だったら。

 悪い想像ばかりが脳裏をよぎる。弱気になっている。ディエゴはかぶりを振って、くだらない妄想を忘れようとした。

(怖気づくな、やるしかないんだ)

 ツバを飲み込む。震える足で、洞窟を進んだ。

 誰かがいれば、撃つ。

 射撃の練習なら何度だって繰り返して来た。撃ち合いになれば拳銃の有効射程は5ヤード(約4・5メートル)程だが、ディエゴは10ヤードまでの標的なら外さない自信がある。20ヤードだってほとんど当てられる。この洞窟に居る限り、敵との距離が10ヤードを超えることはない。

(誰が相手だろうと、撃ち殺してやる)


 ディエゴが生きているとは、強盗団の誰も思っていないはずだ。

 必ず一瞬の隙がある。もしラファエルを見つけたら、その隙をついて即座に撃ち殺す。

 たとえ強盗団の他のメンバーと遭遇しても、エマを連れて外へ逃げ出せさえすれば、ロジャーの援護も期待できる。

 勝機はあるはずだ。

(あとはおれの、運次第か)

 だが――ディエゴは首を横に振った。

 不運はいつだって彼と共にあった。彼とその家系に繰り返し付きまとう。何度逃げたと思っても、死神は足首を掴もうと手を伸ばす。


 洞窟の中は広間のような空間があり、鉱山のように掘りぬかれた通路がいくつも伸びている。地下に進めば食料や水、弾薬を保存しておくための貯蔵庫があり、二階に進めば見張り用の穴に着く。

 他の通路は居住区に繋がる。ボスであるラファエルの部屋、それから手下たちの部屋、他に女たちが共同で使っている部屋がある。

(エマが囚われているとしたら……)

 そもそもこの隠れ家は、誰かを捕まえておくことを想定していない。ラファエルに逆らった者はみんな殺されるからだ。

(エマが囚われているなら、まだ部屋にいるはず)

 殺されているという可能性は、考えたくなかった。


 ラファエルは、エマの美しさを気に入っている。自分の妻にすると公言しており、いつも彼女を手元に置きたがった。簡単には殺さないだろう。

 とはいえラファエルの残虐さを、ディエゴは身を持って知っている。ナイフで刺された右手が、ジクジクと痛む。冷たい刃が皮膚を裂き肉を貫く感触は、忘れようにも忘れられない。ディエゴが痛みに悲鳴をあげた時、ラファエルは嬉々として笑っていた。

 エマはまだ、生きているはずだ。ラファエルはまだエマを殺さない。

 少なくとも、代わりが見つかるまでは。


 拳銃を掴んだまま、足音を立てないように慎重に進む。

 汗が止まらない。

(どうして……誰もいないんだ?)

 心臓の鼓動が早くなった。掌の汗をジーンズで拭い、拳銃を握り直す。小さく深呼吸をすると、再び足音を殺して歩き出した。

 女たちの部屋の、前まで来た。

 扉は閉まっているが、鍵はない。見張りの一人くらいはいるだろうと覚悟していたが、それすらいない。

 嫌な予感がする。 

(まさか、もう、本当に……)

 中に誰もいないのなら、見張りを立てる必要はない。

 意を決して、扉を押し開けた。


 部屋には薄ぼんやりとした灯りが広がっている。テーブルに置かれたランプが、頼りなく揺れる火が唯一の光源だった。

 窓の外は、暗闇。

 すでに太陽は地平線に没し、月のない夜が荒野に広がっている。

「……エマ」

 ディエゴの声は震えていた。

 彼女は、まだそこにいた。

 ベッドの脇に彼女は倒れている。

 彼女は全裸で、ひどく傷だらけだった。左手と両足をロープでつながれて、力なく横たわっている。


 ベルトで鞭打たれたのか、身体中にみみず腫れができている。腹部は何度も殴打されたように、褐色の肌に禍々しく青あざが残っている。美しい金髪はくしゃくしゃに乱れ、乾いた血がこびりついていた。

 拘束されているのが左手だけである理由はすぐにわかった。右手は手のひらを貫かれ、血塗れでどす黒く変色している。

 彼女の顔には傷一つ、ついていない。彼女の美しい顔を傷付けることを、ラファエルが嫌ったのだろう。頬に涙の跡だけが残っている。

 ディエゴの身体が震えた。恐怖ではなく、怒りで。


 ラファエルにとってエマを必要とする理由が、その美しさだけだ。

 だから、二度と逆らえないように拷問し、罰を与え、顔以外のあらゆる場所を痛めつけた。ラファエルにとってエマは美貌以外の価値がない。

 彼女を、人間とすら認めていない。

 だからこんな真似が平然とできる。

 思わず右手を握りしめようとして、ディエゴは痛みに顔をしかめた。


 彼女のそばにしゃがみこむ。エマは全身が傷だらけで、どこに触れていいのかわからない。

「エマ」

 再び呼びかけると、彼女の目がかすかに動いた。まぶたが動き、青い瞳でディエゴを見る。

 エマは、力なく微笑んだ。

「天国から」消え入りそうな声でエマは言う。

「迎えに来てくれたの?」

「バカを言うな。おれはまだ生きている。キミもだ」

 彼女の肌をこれ以上傷付けないように、慎重にロープを切った。

 ディエゴはジャケットを脱いで、彼女に羽織らせる。

「逃げよう。もう一度、今度こそだ」

「どうして……助かったなら、アナタだけでも逃げればよかった」

「キミを見捨てると思ったのか? 絶対に死なせない。キミを一人にするものか」

「でも……わたし、もう動けない」

 エマの声は小さく、喉の奥から漏れ聞こえて来るようだった。

「みんな殺されたわ。みんな……ケイトも、わたしの目の前で」

「だからせめて、キミは生きるんだ。殺された彼女たちの分も」

 ディエゴは彼女の左手を、無事な左手を握った。


「一緒に逃げよう。行く宛てはあるんだ。故郷のローンに兄がいる。もう何年も連絡を取ってないけど、きっと力を貸してくれる。ほとぼりが冷めるまではかくまってもらおう。キミがすぐにでも南部を離れたいなら、ニューヨークまでの旅費はおれが出すよ。それか……キミが望むなら、街に残ってもいい。おれはもう、おれは、名を上げるとか銃の腕を磨くとか、もうそんなことはどうでもいいんだ。キミさえ傍に居てくれたら」

 秘めていた想いがこみ上げて、止められなかった。

「エマが傍にいてくれて、おれにキミを守るだけの力があれば、それでいい。キミが好きだ。だから一緒に生きよう、エマ。おれと一緒になって……おれの故郷で、一緒に暮らしてくれ」

「そう……そうだね。ありがとう、ディエゴ。わたしもあなたが好きよ。ずっと前から」

 エマが、ディエゴの手を握り返してくる。手を握り合ったまま、敵地だということも忘れてディエゴとエマは見つめ合っていた。


 エマの腕を首に回し、身体を支える。

 彼女は今にも折れそうなほどか弱く、弱々しく見えた。

 血と汗のにおい。動くたびに傷が痛むのか、彼女は苦痛に喘ぐような声をあげた。

「痛むだろうけど、心配はいらない。ラファエルの野郎は人を痛めつけるのが得意なんだ。でも、結局は治るから大丈夫だ。おれは何年もあいつのやり方を見て来たから、わかるんだ」

 彼女の意識を繋ぎとめるために、ディエゴは何度も励ましの言葉をかけた。恐怖と怒りで震える身体を抑え込み、無理に明るい言葉を口にする。

 エマの身体は冷え切っていた。歩きながら何度も気を失いそうになっている。

 大丈夫だと言わなければ、彼女が本当に死んでしまいそうで怖かった。

「もう何も心配はいらない。おれがいるし、凄腕のガンマンが助っ人にいる」

 隠れ家の出口が見えた。外へ出れば、あとはロジャーが待っている。誰にも気付かれずにこのまま外へ出られれば、エマは助けられる。

「おれたちは助かるよ。あれだけの早撃ちができる男はアメリカ中を探したって見つからない。なにせ、カルロスとビル、スワローの三人が手も足も出なかったんだから」

「ほう。それじゃその三人は殺されたわけか。わたしの部下の三人が」

 と。

 背筋を凍らせるような、ラファエルの声がした。


 撃鉄を起こす音が聞こえる。

 ディエゴは肩越しに振り返った。壁に寄りかかり、ラファエル・バレンズエラが立っている。

 見せつけるように、拳銃を右手に持って。

 ラファエルは整えた髭を撫でながら、言った。

「くだらない冗談と信じたいが、ディエゴ。お前が生きているところを見るとな……あの三人がお前に負けるとは思えない。本当にそんな男がいるのか?」

 ラファエルだけではなかった。

 囲まれている。強盗団の面々が武器を手に、通路の奥から姿を見せた。唯一の出口も、ライフルを持った男にふさがれた。

(……待ち伏せされてたっていうのか)

 ディエゴは歯噛みした。

 どうして、こんなことが。ディエゴが生き残るなんて、ラファエルには予想できなかったはずだ。偶然にもロジャーが通り掛からなければ、ディエゴは死んでいた。

 生き残り、ましてやエマを助けるために戻るなんて、想像できるはずがない。

 しかしラファエルは待っていた。それが病的な慎重さによるものなのか、何か理由があるのかはわからない。

 わかるのは向けられている銃口が本物で、誰かが引き金を引けば死ぬということだけだ。


「どうして戻って来た、ディエゴ。お前は死ぬはずだった。命が惜しくないのか?」

「エマを助けるためだ。好きな女のためなら命くらい、張ってやる」

 ラファエルは唇をゆがめて、不気味に笑った。

「それはそれは……臆病者のディエゴの言葉とは思えないな」

 殺人者の目で、ラファエルはディエゴを睨む。

 ディエゴの背筋に、恐怖で鳥肌が立った。ナイフで刺された右手が痛み、意識が集中できない。

 あの目だ。あの目でひと睨みされるだけで、大の男が恐怖に震えあがる。ラファエルは人に本能的な恐怖を引き起こす、悪の威厳とでも言うべき不気味な貫禄を備えている。


「そんなにもエマが大事か? このわたしを裏切ってまで……恩を仇で返すとはまさにこのことじゃないか。お前に目をかけてファミリーの一員にしてやったのは誰だ、ディエゴ。わたしではなかったか?」

「アンタはおれを利用しただけだ。使い潰せる奴隷が増えた程度にしか思っていなかったクセに、良く言う。バレンズエラの悪名に惹かれたのは何も知らない馬鹿なガキだったおれだ。今のアンタには憎しみしかない」

「悲しいな、ディエゴ。お前は大切なファミリーの仲間だよ。エマだってそうだ」

「エマをこんな目に遭わせて、なにが仲間だ!」

「ひとりは皆のために、皆はひとりのために。三銃士は知らないか? まあ、いいさ。とにかく……ファミリーは仲間を決して裏切らない。鉄の結束がなければ命は預けられないからな。そして裏切りに必要なのは血の制裁だ。お前もエマも、わたしたちを裏切って逃げ出した。それは仲間を危険にさらす行為だ。ファミリーの掟に従って罰を与えなきゃならない。できるだけ長く、なるべく多く苦しめてからな。それが法であり、秩序だ。わたしは間違っているか?」

「……悪魔め」

 ディエゴは小さく呟いた。


「その名で呼ばれるのは飽きたよ。なあ、ディエゴ。どうして戻って来た? 本当にそんなちっぽけな女ひとりのために、命を張る覚悟で戻ったというのか? お前は勇敢でも無謀でもなかったはずだ……何を狙っている? お前は本当に、わたしの知っているディエゴか?」

「……なに?」

「お前の狙いはなんだ? ちっぽけなディエゴ・マディソン。裏で誰かが糸を引いているのか? いつからわたしを騙していた」

 ラファエルが何を言っているのか、わからない。

 何かを疑って、探ろうとしているようにも聞こえる。

 だがラファエルの真意が読めない。

 何も答えずにいるディエゴを、ラファエルはじっと睨む。やがて、フッと笑った。

「いや……もういい。お前がシラを切っているのか、本当に何も知らないのか。どちらだろうと、頭を撃ち抜いてやればただの死体だ」

 ラファエルが拳銃を動かす。

 銃口がディエゴの頭の高さまで持ち上げられる。

 無駄と知りながら、エマを背後にかばった。

アディオスあばよグリンゴ白人野郎

 ラファエルが唇を歪めて、言った。

 撃たれるのは腕か、足か。でなければ両方か。ラファエルが一発で幕引きにするはずがない。少しでも苦痛が長引くようにして殺すだろう。

 銃声が響いた。


 ディエゴは当然来るはずの痛みを待った。

 だが悲鳴をあげたのは自分ではなく、ディエゴの背後に立つ男だった。

 弾丸に胸を撃たれ、苦しげに血を吐いて倒れた。

 ショットガンを持つ男の手が震えて、動かなくなった。


「な、なんだ!」

「撃たれたぞ! 敵がいる!」

「どこだ! どこから撃たれた!」

「外へ出るんだ! 応戦しろ!」

 強盗団の面々が混乱し、怒号の声をあげる。

(ロジャーだ!)

 援護の約束は嘘ではなかった。あの距離では洞窟の入り口なんてほとんど見えないだろうに、ロジャーは正確に敵を撃ち抜いた。

「逃げるぞ、エマ!」

 ディエゴが彼女の手を引こうとした。

「ディエゴ!」

 エマの悲鳴。混乱の中ラファエルがエマの首に手を回し、盾にしながら後退した。


 ディエゴの足元で弾丸がはじける。咄嗟に身を伏せた。誰が誰を狙っているのかわからない。強盗団の男たちは正体不明の敵に向かって、闇雲に銃を撃っている。

 ラファエルだけが、人質をとって逃げようとしていた。

「逃がすか!」

 銃声の間を突っ切るように、ディエゴは走った。

「ラファエル!」

 片手でエマを拘束したまま、明かり採りの窓からラファエルがはしごを下ろしている。ディエゴに気付き、すかさずラファエルが振り返った。

 拘束するエマを、盾のように身体の前に立たせる。


「追って来たか。少しは勇敢になったじゃないか……男の顔になったな。お前のそんな顔が見られて、わたしは嬉しいよ」

「エマを放せ、卑怯者!」

「卑怯? この女はわたしが妻にするために買い、育てたんだ」

 エマの首に回した腕を、ラファエルが持ち上げる。エマが苦しそうなうめき声を上げた。

「どう使おうがわたしの自由だ。夫の盾になって死ねるなら、こいつも本望だろうよ」

「ふざけるな! エマの命は、エマだけのものだ。お前に奪う権利なんてない!」

「お前には教えたはずだな、ディエゴ。権利を決めるのは強者だ。この場で最も強いわたしが、この女の運命を決める権利がある。気に入らないというのなら、わたしからこの女を奪ってみせろ」

 挑発するように、ラファエルが言った。

(やるしかない……!)

 ディエゴは息を止めた。


 心臓が暴れている。恐怖と緊張に、身体が震えた。

「抜け、ディエゴ。命懸けの勝負だ……楽しもうじゃないか」

 ラファエルの右手が、ゆっくりと動く。

 ディエゴの額から汗が一筋、流れた。

 これが、最初の殺人になる。


 距離はおおよそ10ヤード。

 互いに拳銃は腰のホルスターに収めている。

 どちらが早く拳銃を抜き、相手の肉体に銃弾を叩き込むか。

(当てる……当てられるはずだ)

 小柄なエマに比べれば、ラファエルは頭二つは大きい。

 左手でエマを拘束しているが、肩から頭まで丸見えだ。

 ラファエルの顔面に弾丸をぶち込めばいい。

 それですべてが終わる。


 ラファエルの指が開いていく。鋭く細められた猛禽のような目が、ぎらぎらと輝きディエゴを射抜く。

 恐怖が、ディエゴの心臓を鷲掴みにする。

 一呼吸の合間に心臓が百、胸を叩いた。

 先に拳銃を抜かなければならない。奴よりも早く拳銃を抜き、奴よりも早く引き金を引く。 

 できるはずだ。躊躇う理由はない。

 ディエゴは唾を飲み込んだ。

 ラファエルの右腕が動く。

 百分の一秒にも満たない一瞬、ラファエルの右腕に向かって伸びる――瞬間、ディエゴの左手が閃いた。

 拳銃を抜いた。

 引き金を引いた。


 二発の銃声が、重なるように響いた。

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