第2話 誰も拒絶しない場所だから

 彼女は軽く相槌を打つと、彼の手を引いて歩き出す。怪我をおもんばかっているのかゆっくりとした歩調だ。草を踏みしめる足の裏の感触がよそよそしく感じられ、彼は瞼を伏せた。冷えた彼女の指先を振り払いたい衝動に駆られる。

 庭をしばらく進むと、人が二人は優に通れるくらいの扉が左手に見えた。しっかりと取り付けてあるのか、この強風の中でも音を立てていない。薄汚れた壁とは違い、そこだけはよく磨かれているようだった。

 彼女は彼の方を振り返って目で合図し、重たげな扉を開けた。ぎぎぎと軋んだ音と共に白い世界が露わとなる。彼女はくるぶしまであるスカートを翻して、その奥へと進んだ。建物の中へ吹き込んだ風が、甲高い悲鳴を上げる。

 彼は無言で後を追った。草木に紛れやすい深緑色の上着が、風に煽られて硬い扉にぶつかる。

 中へ足を踏み入れると、そこは質素な部屋だった。やや黄ばんだ白い壁には、子どもが描いたと思われる絵が張り付けられている。家具は少なく、奥に見える棚と手前にあるテーブルと椅子の他は何もなかった。もっとも、右手に扉があるところからすると、そちらに物を置いているのかもしれない。それにしても殺風景だったが。

「ここは私とクロミオの部屋です」

 彼が部屋を見回しているのがわかったのだろう。彼女はそう説明すると、棚へ近づきその上に乗せてある小さな箱を手に取った。色褪せ具合を見ると、ずいぶん昔から使っている物のようだ。

 彼女は座るようにと目配せしてから、彼の方へ寄ってくる。彼はおとなしく手近な白い椅子に腰掛けると、目の前に立つ彼女を見上げた。片方しか見えない黒い瞳はとらえどころがなく、何もかも見透かしているかのように感じられる。沈黙がいたたまれずに、彼は当たり障りのなさそうな疑問を口にした。

「――クロミオ?」

「弟の名前です。まだ八歳になったばかりで。今日もまた勝手に出かけちゃって、仕方のない子なんですよ。まだまだ遊び盛りで」

 言葉とは裏腹に、彼女の声音には優しさが滲んでいた。顔をほころばせた彼女は、焦茶色の箱から包帯を一つ取り出す。そして血の滲んだ彼の袖を慎重に捲り上げると、傷口を見て顔をしかめた。よく日に焼けた彼の肌に、おそらく撃たれた痕があるはずだ。まさか傷口だけで何による負傷かわかったのか? ひやりとしたものを感じつつ、彼は眉根を寄せる。

「ひどいのか?」

「もう少しずれていたら、太い血管がやられていたと思うの。危ないところだったわ」

 彼は密かに固唾を呑んだ。そんなことになっていれば、ますます事態は危うかっただろう。無論、現状がすこぶるよいものであるとも言えない。彼女が自分の勘違いに気がついたらと考えると、背筋を冷たい汗が伝っていった。

「あなたは運がいいのね」

 彼女は箱から小さな盆を取り出し、それを彼の腕の下にあてがうと、傷口によくわからない液体をかけ始めた。痛みと冷たさに襲われ、彼は声を堪えるために奥歯を噛む。肌が突き破られ、肉が抉られ、脂肪が焼かれるかのような激痛。そんな錯覚に飲み込まれながら、彼は固く瞳を閉じた。これが毒だったら終わりだなと、頭の隅で考える。

 腕から全身へ駆け巡った強烈な違和感が収まると、彼は恐る恐る目を開けた。呼吸が荒くなっている。顔色も悪いかもしれない。だが彼女は表情を変えることなく、ついで白い布を腕へと軽く当て、包帯を巻き始めた。ずいぶんと手慣れている。

 ゼイツは額に滲んだ脂汗を、右の手の甲で拭った。少なくとも今すぐ死ぬことはなさそうだと、なかなか安堵することができない。厚意の皮を被った罠だという可能性が、いつでも彼の脳裏をかすめていた。

「ゼイツはどこの所属なの?」

 手当をしながら、何気ない調子で彼女は尋ねた。所属とは何のことだろう? そういう制度がこの教会には存在しているのか? 頭をいくら回転させても、咄嗟に上手い言い逃れが浮かばない。彼は答えあぐねて口をつぐんだ。不用意な発言は立場を危うくするだけだ。慎重に返答を選ばなければ。

「ゼイツ?」

 不思議そうに顔を上げた彼女は、動揺を押し隠す彼を凝視した。一つしか見えない黒の瞳は、純粋に疑問に思っているようにも、探っているようにも見える。そこから逃れたくて、つい視線を逸らしたくなる。

 やはり長居をするのはまずいだろう。すぐさま彼女をはね除けて走り去るべきか、それとも適当に言い繕うべきか、彼は迷った。

「もしかして、覚えていないの?」

「え、あ、いや……」

「まさか暴発の影響で記憶が――? 確かテンポラもそうだったって言っていたのよ。このまま戻らなかったら大変よ」

 包帯を巻き終えた彼女は心底不安そうに眉根を寄せた。予想した話の方向とは明らかにずれていて、言葉を失った彼は瞬きのみを繰り返す。彼は何も言わない方がいいのではないか? そんな気がしてくる。

 暴発とは何なのか? 単なる事故ではないのか?

 浮かぶ疑問を口にすることもできずに、彼は曖昧に微笑んで頭を傾けた。彼女の勘違いに全てを委ねる方が楽かもしれない。言いよどんでいるうちにどんどん事態が動いていく。彼女は小さなため息を吐くと、箱の蓋を閉めてからその上に盆を乗せた。

「傷はかなり痛みます? 化膿止めがないので持ってくるわね。ついでに、お医者様にすぐかかれるかどうか聞いてくるわ。それまで、ここで静かに待っていて」

 箱を抱えた彼女は柔らかく微笑んだ。彼が何も言わずに相槌を打つと、彼女は踵を返して右手の扉へと向かう。茶色の布が、長いスカートが揺れて、白い部屋の中で淡い軌跡を描いた。彼女の後ろ姿が扉の奥へと消えていくのを、彼は黙って見送る。

 扉が閉まると、ようやく静寂が訪れた。どこか張り詰めていた空気も緩む。彼は大きく息を吐くともう一度部屋の中を見回した。壁の材質はジブルのものと大きく変わりなさそうだ。ただ長年使っているのか黄ばみがひどい。所々罅も入っている。彼は左肩を庇いながら、ゆっくり椅子から腰を上げた。

「この部屋はどの辺りに位置してるんだ?」

 脳内で教会の全体を描き出そうとして、すぐに彼は諦めた。そんなものは彼の知識にはない。しかも撃たれてからは追っ手を撒こうとでたらめに走ったため、どの方角へと進んでいたのかも定かではなかった。教会の端の方なのか否かも、皆目見当がつかない。何となく、奥へと進んでいた気はしているが。

 しかしこれは絶好の機会だ。ウルナが戻ってくれば自由には動けないし、医者になど診せたらこの傷が銃弾によるものであると発覚してしまう。早く証拠を見つけてここを脱出しよう。彼女はもうこの近くにはいないだろうか?

 彼はそろそろと扉へ寄り、ゆっくりそこを押し開けた。軋んだ音を立てて開いたその先にも、もう一つ部屋が存在している。小さなテーブルと椅子、そして小振りな棚があるのみの広くはない部屋だ。正面と左手には同じような扉が一つずつ存在している。彼は少し悩んでから、左手の方の取っ手を握った。

 勘は当たった。その先は廊下だった。床も壁も天井も白くて、材質も印象も部屋の中と大差はない。ただ廊下はひたすら長く、また所々に似たような扉が並んでいるのが見えた。統一されていると言えば聞こえはいいが、味気はない。とにかくこの建物には生気がなかった。

「何てわかりにくいんだ」

 思わず彼はぼやいた。人通りがないのは幸いだが、これではどこに何があるのか予想もつかない。どうやってここにいる人々は判別しているのだろう?

 彼は小さく舌打ちしてから、仕方なく歩き出した。外から見た時もわかりにくい構造だとは思ったが、中からでも同じらしい。このまま進んで怪しい場所を探すしかないだろう。人というのは、何故だか大抵奥の方に大事な物を隠すものだ。

 相変わらず左腕は重い。痛みと言うよりも鈍いじりじりとした痺れが走っていて、とにかくだるかった。

 歩き出すとまた足の気怠さも戻ってくるし、喉が渇いていることも自覚する。気のせいかもしれないが、ニーミナの方がジブルよりも乾燥しているように思えた。肌に感じる空気の重さも、わずかに違う。

 急ぎたいが、足が上手く前へと進まない。できるだけ靴音を立てないようにと気を遣うと、なおさら歩みは遅かった。彼は人の気配に注意を払いながら白い廊下を行く。

 ウルナの言動から判断するに、この教会に住む者は互いを知り尽くしているわけではなさそうだ。誰かに出くわしても素知らぬ振りをすればやり過ごせるかもしれないと、彼は焦る心を落ち着かせるための言葉を繰り返す。左腕の傷に注目されなければどうにかなるだろう。彼は軽く口角を上げた。

 しかし、いっこうに廊下が続くのみで、そもそも奥へと向かっているのかも定かではなかった。教会と呼ばれてはいるが、この建物の造りは異様だ。まるで迷路だ。

 何かを隠すために、こんなわかりにくい構造をしているのだろうか? それにしても、ここを利用する人々にとっても不便だろうに。

 足の裏が熱を持ったように痛む。視界もかすかにぼやけている気がする。傷から何か感染していないことを願い、彼は左腕へと一瞥をくれた。緑の上着に隠れ、しっかりと巻かれた包帯は見えない。上着まで滲んだ血の色がやけに毒々しく見えて、彼は瞳をすがめた。この傷が決定的な破滅を運んでこないことを、つい願いたくなる。

 一度足を止めると、息苦しさを覚えた。目の奥が重く、前後の感覚が朧気になりふわふわと目の前が揺れる。吐き気がする。歯噛みしてそれらをやり過ごしてから、彼はまた歩き出した。

 やはり毒を注がれたのではないだろうか。それとも傷のせいなのか。精神的には強いつもりだったのだが、ここに来てからひたすら自信が打ち砕かれている。

 だがゆっくりとでも進んでいると、ようやく変化が訪れた。ひたすら真っ直ぐ続くだけと思われた廊下に、右へと進む道が現れた。彼はその手前で立ち止まる。このまま前へ行くべきなのか、右へ曲がるべきなのか。

 根拠となるような情報はない。選ぶとしたら勘だ。それでも何か手がかりはないかと、彼は右へと向かう廊下を覗き込んだ。

 そして、息を呑んだ。最悪なことに、こちらへ近づいてくるウルナと思い切り目があった。彼女は書類を抱えていた。部屋を目指しているのだろうか? 彼は後悔の念を抱きながら必死に呼吸を整える。

 おそらく彼に気づいたからだろう、彼女は目を丸くすると小走りで近寄ってきた。今から逃げるのは無理だ。観念した彼は、できるだけ自然な照れ笑いを意識して右手で首の後ろを掻く。

「ゼイツ! 待っていてって言ったのに」

「いや、その、喉が渇いて……」

「そうだったの? 気づかなくてごめんなさい」

 彼のすぐ傍までやってきた彼女は、息を吐くと辺りを見回した。それから抱えている書類へと目を落とす。その視線につられるように、彼もその紙を見下ろした。

「それは?」

「あなたの滞在許可証よ。ゼイツって名前がどの所属にもなかったから」

 さらりと告げられた事実に、彼は絶句した。名前がないとはどういうことだろうか? 登録することになっているのか? それを誰でも調べることができるのか? しかし何故、彼女は疑問にも思っていないのだろう?

 この教会の制度も、彼女の思考も、何もかもがわからなかった。さすがはニーミナだと言うしかない。もちろん、それで納得してすむ話でもない。何かを間違えた瞬間、彼の命は終わる。

「――どうして?」

 彼にはそう尋ねるしかなかった。それ以上の言葉を続けることができなかった。何故見知らぬ者に対してそこまでするのか。考えれば考えるほど、疑問は猜疑に包まれていく。

 うまくいきすぎていて怪しい。全ては彼から情報を引き出すための罠ではないかとさえ思う。見えない糸が、この白い教会に張り巡らされている。

「だってあなた、帰る場所がないでしょう?」

 当たり前だと言わんばかりに、彼女はそう言い切った。右の瞳が揺れることなく彼を見据えている。全てを見透かすような視線から逃げたくて、彼はわずかに俯いた。黄ばんだ床に映る影が、そこはかとなく薄い。まるで夢の中に迷い込んだような妙な心地になる。

「帰る場所……」

 確かに、調査を成功させなければ彼は帰ることができない。何も持たずに逃げ帰ることは許されない。ここはジブルの同盟国ではない。協定を結んだ国でもない。連合にさえ加盟していない異端―ニーミナだ。何もかもが謎に包まれた、女神に守られた小国だ。

 そこに潜入することの意味を、彼も理解している。そうせざるを得ないほどに、ジブルが追い詰められているということも。事態が深刻だということも。

「ここにいる人々は皆、帰るべき場所を持たぬ者たちばかり。だからこそウィスタリア様が助けてくださったのよ。ウィスタリア様は私たちをいつも見守っている」

 静かな声で彼女は告げた。彼はやおら顔を上げて、呆然と彼女を見つめる。穏やかな表情でごく自然に口にした、女神の名前。その不思議な響きに、彼の胸の奥がざわついた。

 ニーミナはウィスタリア教を国教としている。ウィスタリアというのが女神の名だというのは彼の知識にもある。しかしそれ以上のことは知らなかった。彼女たちは女神をどのような存在と捉えているのだろう? どのように伝えられているのだろう? 彼女の微笑を見ていると、それは救いの象徴のように思える。

「ゼイツも心配しないで。大丈夫、あなたはここにいるのを許される。ここは誰も拒絶しない場所だから」

 確信に満ちた彼女の言葉に、彼は曖昧な笑みを浮かべて首を縦に振るしかなかった。見知らぬ力に流されているような感覚に、腕の重みさえ忘れかけていた。

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