ウィスタリア

藍間真珠

第一章

第1話 迷い人ですか?

 人には限界というものがある。越えてはならない壁が存在する。もうこれ以上、走り続けるのは不可能だった。腕が、足が、胸が、先ほどからずっと声なき悲鳴を上げ続けている。

 朦朧としながら全てを諦めかけたゼイツの目は、ふと大きな茂みを捉えた。あの中であれば、追っ手の目をくらませられるかもしれない。

 下草に足を取られそうになりながらも、彼は意を決して茂みへと飛び込んだ。葉擦れの音と共に左腕に痛みを覚え、彼は奥歯に力を込める。踏みつぶされた細い枝が、足下で大きな音を立てた。

 視界いっぱいに広がる緑、緑、緑。だが求め続けた日光が得られないためか、それともこの異常な低気温のせいなのか、葉の端が茶色く変色している。鼻につく臭いもかすかに漂っている。まるで死にかけだった。

「はあ」

 ため息を吐くと、喉の奥が焼けたように痛んだ。咳き込むのをどうにか堪えて、彼はその場にしゃがみ込む。枝と枝の間にうまく体を潜り込ませると、自分の呼吸音が妙に近く聞こえた。やけに耳障りだ。

 熱を持った左腕の重さ、限界を越えた両足の気怠さは、今まで負ったどの傷よりも彼の心を焦らせた。緑の中では目立つ金の髪を、衝動にまかせて掻きむしりたくなる。

 一体、どれだけ走り続けたのだろう? この小国ニーミナへと入ったのは数日前のことだった。そこから人目を避けて歩き続け、ついにひっそりとたたずむ教会へと潜入したのは、まだ日が昇らない時間帯だ。

 だが妙な男に見つかり、拳銃で撃たれてからの記憶が曖昧だった。どうやってその場から逃げ出したのか覚えていない。

 気づいた時には、細長い建物を無理やり繋げたようなこの教会の、その周囲に張り巡らされた単調な庭を、ひたすら駆けていた。

 彼は耳をそばだて、目を瞑った。視界が閉ざされたせいか血の臭いが鮮明となり、脈打つような痛みが左腕から全身へと広がっていく。弾がかすった肩のやや下を、彼は右手で押さえつけた。

 あの男が構えていたのはおそらく拳銃だった。今ゼイツの腰にある物とほぼ同じ作りだろう。こんな小国にもあんな古代兵器を持っている者がいるとは予想外だった。もっと慎重に動くべきだったと、彼は歯がみする。

 難なく教会へ侵入できたためすっかり油断していたが、ここはニーミナだ。何が潜んでいてもおかしくはない。

 彼はうっすら目を開いた。かすんだ視界に映る木々がわずかに歪んでいる。吹き荒ぶ風に揺れる葉のさざめきが、彼の鼓動と呼応した。自然の気配以外は何も感じない。どうやら追っ手を撒くことには成功したらしく、誰の足音も聞こえてこなかった。

『あの国は禁忌の力に手を出そうとしている』

 不意に、父――ザイヤの硬い声が彼の脳裏に蘇った。そう切り出してきたのは真夜中のことだった。思い切り怪訝な顔をしてしまったのを、ゼイツはよく覚えている。

 突然『禁忌の力』などと言われても、何のことだかすぐにはぴんとこない。しかも仕事が終わったばかりともなれば、思考が止まっても仕方がないだろう。普段、ザイヤはそんな話し方をしない。そうなだけに、あの時の言葉は今でも強くゼイツの耳に残っていた。

 資源枯渇への道を進み続けているこの世界で、禁忌の力とされているものがある。それはおとぎ話にのみ存在する魔法のような力だった。遙か昔に存在していたとされる、物質を犠牲にすることなくエネルギーを生み出す力だ。嘘みたいな話だった。だがそれをこの星――地球の国々は禁忌の力と定め、手を出すことを互いに禁じている。

 もちろん、普段の生活ではそんなことを意識することはない。そもそも、その事実を知らない者も多いはずだ。第二級登用試験を受けるために訓練していたゼイツでさえ、急に話をされてもすぐには思い出せなかった。

 しかし口にしたザイヤは神妙な面持ちのままで、ゼイツは冗談を言うこともできなかった。ザイヤが嘘を吐く人間ではないことをゼイツはよくわかっている。

 ニーミナに潜入して証拠を掴む。そんな重大な役を任されることになった経緯を、ゼイツはよく知らない。本来はザイヤの仕事だったという噂も聞く。正直、使い捨ての駒ではないかという気もしている。

 ニーミナについての情報は信じがたいほど乏しかった。ウィスタリア教を国教とするニーミナは、あらゆる面で他の国と趣を異としている。その実態が外へと伝わってこない。連合にも加盟していないはずだ。

 どの国もニーミナに手を出さないのは、農作にも向かない凍えた土地であるためだ。それでいて何が眠っているかわからないからだ。またニーミナも他国へ援助を求めることがないため、不気味なバランスでもって現状が維持されている。

「はあ」

 ゼイツはまた小さく息を吐いた。体が重くてすぐには立ち上がれそうにない。少し重心をずらすと、踏みつけている細い枝が音を立てた。ちょっとした動きでも全身の筋肉が引き攣り、彼は瞼を伏せる。

 これからどうすればいいのだろう。いつまでもここにいては何も始まらないし、いずれは見つかってしまう。せめて日が沈むまで潜むことができたらいいのだが、そうなったらなったで彼の体力も危ういかもしれなかった。

 ニーミナは、彼が住んでいたジブルよりも北に位置している。最近の異常気象を考えると、夜はかなり冷え込むと予想できた。しかも、もう夏でもない。

 うずくまったまま、彼はゆっくりと空を見上げようとした。重なり合った葉のせいでほとんど見えないが、光の方向から予想するにそれなりに日は傾いている。かなり長いこと走っていたようだ。無我夢中だったせいで、時間感覚はなかったが。

「よし」

 このままでは体から熱も奪われてしまう。意を決して、彼はその場で立ち上がった。肩に触れた葉が、はね除けられた枝が、一斉に揺れて音を立てる。

 だがそれはこの庭全体を包む草木の悲鳴にすぐさま溶け込んだ。細長い建物と建物の間を通り抜ける風は意志を持つがごとく、強い力で全てを押し流そうとしている。

 痛みを堪えて、彼はゆっくり茂みから顔を出した。近くに人影は見あたらなかった。それどころか鳥や虫の鳴き声もなかった。この教会には誰も住んでいないのではと思うような、ある種の静寂。辺りは草木と風の声で満たされている。

「どうなってるんだ?」

 思わずそうぼやきつつ、彼は茂みから抜け出した。左腕を一瞥してみたが、さほど出血はしていないようだった。当たり所がよかったのだろうか。

 しかし思い通りに扱えそうにはない。金属のように重くなった腕には痺れが広がっていて、指先をかすかに動かせる程度だ。

 彼は右手で腰の辺りをまさぐると、上着の内側に隠してある拳銃のありかを確認した。これは最後の切り札だ。危険な地へと赴く彼へ、ザイヤが手渡してくれた貴重な武器だった。だが武器であると同時に、決して失ってはならない遺産でもある。

 不意に、風の音が弱まった。薄雲の向こうで輝く日に陰りが見えて、先ほどとは別の静けさが周囲を覆う。

 いや、そう思った次の瞬間、ゼイツの耳は草を踏み分ける靴音を拾った。それは彼の左手から聞こえてきた。

 鼓動が跳ねて、嫌な汗が額に滲む。誰かが来る。足音は一定の歩調で近づいてきていて、焦る様子も見られない。

 拳銃に触れたまま、彼はその場で硬直した。これを構えるべきか、否か。喉の奥を固い唾が落ちていく。弾丸は全部で三つだ。それを使い切ってしまえば終わりも同然。

 彼はその場を動かずに、恐る恐る首だけ左へと向けた。そして、息を止めた。

 殺風景な庭を歩いているのは、一人の女性だった。緩くうねる黒い髪を鎖骨辺りで束ねた細身の女だ。年の頃は彼とそう変わりないだろうか? 肩から羽織った大きな布も、髪も、生成り色の長いスカートも、風に煽られ揺れている。

 しかしそれより何より、彼の視線を奪ったのは彼女の目だった。右の瞳は真っ直ぐ前を見据えているが、左は黒い布に覆われている。

 相手が女であったことに、まず彼は安堵した。それと同時に今後どう動くべきか躊躇した。彼女からは焦燥感も戸惑いも感じられない。まるで彼がここにいるのが当たり前であるかのように、悠然とこちらへと近づいてきている。

 彼女を振り切って逃げるのは容易いだろう。左手が使えないとはいえ、女に負ける気はしない。短剣も仕込んである。最も警戒すべきなのは他の人間を呼ばれることだが、少なくとも現時点でその気配はなかった。

「あなたは」

 さらに近づいてくると、彼女はやおら口を開いた。予想していたより高い声が、薄い唇から放たれる。それは風に打ち消されることなく彼の耳へと届いた。

 彼は半身だけ彼女の方へ向けると、瞳をすがめる。何を言われるのか? どうするかはそれ次第だ。

「迷い人ですか?」

「――は?」

 つい気の抜けた声が漏れた。彼女が口にしたのは咄嗟に思い浮かべたどの言葉でもなくて、彼は思いきり眼を見開いた。反応としては最悪な部類のものだっただろう。だが彼女は意に介した様子もなくただ小首を傾げる。数歩分だけ離れたところで立ち止まった彼女は、ゆるりと周囲を見回した。

「違いましたか? だってこんなところに人がいるはずないもの。……ええ、わかっています、ここは迷路みたいですからね。私もここに来たばかりの頃は、よく道に迷いました」

 一人で勝手に喋り出した彼女は、重たげなため息を吐いた。どうも勝手に勘違いしてくれているようだった。

 それならばこれ幸いと乗っかりたいところだが、一つ問題がある。左腕の傷だ。こればかりはどうやっても言い訳ができない。彼女が続けてどんな言葉を投げかけてくるのか、彼は息を呑みながら待った。

「でも、この先は駄目なんです。これ以上は――」

 そこまで口にしたところで、ようやく彼女は彼の傷に気がついたようだった。右の瞳が見開かれ、ついで慌てた様子で近づいてくる。彼が逃げるべきか判断に迷っている間に、彼女の手が左腕へと添えられた。

「怪我をしているの? ひどい傷」

「あ、いや、これは……」

「もしかして暴発に巻き込まれたの? 先ほどのはなかなか大きかったものね。大変」

 彼女は勝手に独り合点するのが得意なようだった。顔を青ざめさせて辺りへと視線を彷徨わせ、「大変」という言葉を繰り返している。

 馬鹿な女だ。しかしそのおかげで朧気だが事態が理解できた。これだけ人気がないのにも理由があるらしい。

 暴発というからには、何かの事故だろうか? もしかしたらあの拳銃の男もそちらへ呼びつけられたのかもしれない。だから撒くことができたのか。何にせよ、ゼイツにとっては全てが好都合だった。

「こんな所にいては傷に障るわ。さあ、こちらへ」

「え? こちらって」

「すぐに手当をしなくちゃ駄目よ。大丈夫、少し心得があるから。落ち着いたら後でちゃんとお医者様に診てもらいましょう? 心配しないで」

 彼女はそう言って薄く微笑んだ。それはジブルの女が浮かべるものよりも、どこか浮世離れして見えた。左腕から指先を離すと、彼女はそっと彼の右手を取る。

 こうして見下ろすと、よくこの風の中で立っていられるなと思うほど華奢な体躯だった。幻でも見ているのかと思うような頼りなさに、妙な心地になる。

「心配しないで」

 彼女は繰り返す。反射的に頷いてしまった彼は、その後はっと気づいてわずかに瞠目した。これは絶好の機会かもしれない。うまくいけば教会の奥へ潜り込めるかもしれない。そう思うと額にも手のひらにも妙な汗が滲んだ。

 彼はできるだけ早口にならないようにと、一呼吸置いてから問いを投げかける。

「名前、教えてくれないか?」

「――はい?」

「その、あなたの名前を。俺はゼイツ」

「ゼイツですか、いい名ですね。私はウルナです」

 何の疑問もなさそうに答えた彼女は、頭を傾けてまた微笑んだ。警戒心の乏しい女だと苦笑したくなるが、つい本名を答えた彼も似たようなものだろう。偽名が咄嗟に浮かばなかっただけだが、教えてしまった以上は今さらだ。腹をくくるしかない。

 彼女がこの傷を何とかしてくれるというのならば、とりあえずは利用すべきだろう。彼はそう自らを納得させる。

「ありがとう」

 様々な意味を込めた言葉を、彼は口にした。

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