第3話 俺には一切期待するな
ゼイツがニーミナへと潜入してから、一体何日が過ぎただろう? それまでの旅路を思うと、気が抜けるほど穏やかな時間が流れていた。
仕事をする必要もなければ食事を心配することもない。命を狙われることもない。傷を癒すことだけに専念する日々。
ウルナは教会への滞在許可だけではなく、住む部屋、毎日の食事についても手配してくれた。ここまで親切にされると疑念と混乱と申し訳なさが入り交じり、彼は複雑な気分になる。
また、記憶を取り戻す手伝いだと、彼女はこの教会についても色々なことを教えてくれた。聞いたことを頭に入れるだけで、彼は精一杯だった。
この教会の仕組みは、彼の知るどの組織とも異なっている。ウィスタリア教の中心となるような単なる大きな教会だと思っていたが、どうも違うらしいということが朧気にわかった。何のためにここまで大きくなっているのか、どういった人々がここにいるのか、掴みきれていない。
だが弱音を吐いてばかりもいられない。居場所が確保できたならば、できれば一人の時間は探索に使いたかった。禁忌の力について調べ、その真実へと近づくのだ。けれどもそれも、現状では不可能に近かった。
ウルナがいない時間、ゼイツの側には大抵クロミオがいた。まだまだ子どもであるクロミオは、はじめこそ知らない人間を警戒していたものの、害がないとわかるや否や遊び相手と認定してきた。ゼイツにはたまったものではないが、無視することもできない。
結局、調査に乗り出すこともできず、ただ教会への正式移住手続きだけが順調に進んでいた。
その朝も、ゼイツはあてがわれた部屋で目を覚ました。左腕の痛みはずいぶんよくなっている。痺れはまだ残っているが、日常生活範囲であれば手を動かすことも可能だった。化膿していなかったのも幸いだったのだろう。先日の暴発のせいで、どうも医者は忙しくてすぐにはかかれないらしい。そのおかげで、どうにか医者に診られることなくすんでいた。
掲げた左手をじっと眺めてから、彼は身支度を始めた。あまり遅くなると、ウルナが朝食を持ってやってきてしまう。少なくとも拳銃と短剣は、彼女が来る前に身につけておきたかった。
部屋にはベッドと棚、そしてテーブルと椅子がある。ウルナたちの部屋と似たような作りで、印象もほぼ一緒だった。違いは広さくらいだろうか。この部屋にいると、色を持つものが自分だけではないかという錯覚に陥る。
余っているからとウルナが持ってきてくれた鏡を、彼はそっと覗き込んだ。ややくすんだ金の髪も深い緑の瞳も焼けた肌も、記憶にあるものと変わらない。だがここにいると自分だけが場違いなほど鮮やかで、薄暗い世界から浮いているという感覚を拭いきれなかった。ウルナもクロミオも不思議そうにはしていないから、恐れから来る感覚だとは思うのだが。
「ゼイツ、起きてる?」
彼が微苦笑を浮かべた瞬間、戸を叩く音が聞こえた。ウルナの声だ。彼は「ああ」と返事をしてすぐに扉へと向かう。もう朝食を持ってきたのか。いつもより早い気がするなどと考えつつ、彼は取っ手を握った。今朝の冷え込みのせいか、昨日の晩よりも冷たく感じられる。
「おはよう、ゼイツ」
扉を開けると、廊下にいるのがウルナだけではないことがわかった。彼女の後ろにはクロミオと、もう一人の男がいた。
年の頃はゼイツとさほど変わらない。おそらく二十代だろう。ほぼ黒に近い焦茶色の瞳には、鋭い光が宿っている。長い黒髪は頭の上で一本にまとめられており、それが灰色の上衣に触れて揺れていた。薄暗い印象を抱くが、視線の強さだけが際だっている。
「……ああ、おはよう」
「驚かせてしまった? 少しでも早く、彼をあなたに会わせたくて」
「ラディアスだ」
ウルナが後ろを振り返ると、紹介された男――ラディアスが口を開いた。臓腑に響くような低い声には刺々しさが混じっている。ゼイツは機械的に首を縦に振った。ラディアスとは何者なのだろう? 眼差しから判断するに、どうも好意的ではないようだが。
「この教会のこと、ゼイツもまだまだわからないところがたくさんあるでしょう? 私たちだけでは心許ないと思って連れてきたの。知り合いは多い方がいいものね。服も貸してくれるって」
微笑むウルナとは裏腹に、ラディアスの表情は硬いままだった。ゼイツは「ありがとう」とだけ答えて、内心で嘆息する。厄介なことになった。傍にいるクロミオも笑顔なところを見ると、悪い人間ではないのだろう。しかし異端者であるゼイツにとってもそうとは限らない。
「ラディアスは古代品発掘班所属なの。ほらラディアス、彼がゼイツよ。よろしくね」
「ああ」
ウルナに促されて、ラディアスは言葉少なに頷いた。けれどもどう考えても「よろしく」してくれる者の表情ではない。
何故ウルナは彼を連れてきたのだろう? やはりゼイツのことを疑っているのか? それとも本当に単なる厚意なのか? ゼイツには判断できなかった。
「それじゃあゼイツ、ちょっと早いのだけれどクロミオをお願い。朝食をとって待っていてね。私は姫様のところへ行かないといけないし、ラディアスも今日は朝から仕事だから」
そう告げてウルナが一歩後ろへ下がると、籠を抱えたクロミオが前へ進み出てきた。面倒を見ろということか。黒い双眸を輝かせたクロミオの頭を、ゼイツは軽く撫でた。ラディアスについても、尋ねたらクロミオは何か喋ってくれるだろう。情報収集のためだと割り切ることにして、ゼイツは口の端を上げる。
「ああ、わかった」
「それじゃあよろしくね」
笑顔で去っていくウルナ、無言で立ち去るラディアスの後ろ姿を、ゼイツは黙って見送った。楽しげに会話を交わしている様子はないが、並んで歩く二人の距離から予想するに、それなりに親しいようだった。恋人という雰囲気でもないが。
「さて、朝食にするか」
「うん!」
二人が振り返る気配がないことを確認すると、ゼイツはクロミオを部屋へと招き入れた。クロミオは当然とばかりに、軽い足取りで中へ入ってくる。
「早起きしたからお腹すいちゃった」
クロミオは嬉しそうに籠を掲げた。ウルナの弟であるクロミオは、八歳になったばかりのまだまだ遊びたい盛りの少年だ。元気が有り余っているらしく、一つ一つの動きが軽やかでかつ大袈裟だった。食欲も旺盛だが、体格はウルナと同じく華奢だ。ゼイツはクロミオの持つ籠を取り上げると、おもむろに中を覗き込む。
「今日は何なんだ?」
「アムノミのパン! お茶もあるよー」
「そうか。いつもありがとうな」
「それは僕じゃなくてお姉ちゃんに言ってね。お姉ちゃんが用意してるんだから」
嬉しそうに言うクロミオに、ゼイツは「ああ」とだけ答えた。何故ここまで親切にしてくれるのかという疑問は口にせずに、クロミオに続いてテーブルへと向かう。
慣れ親しんだ様子で椅子に腰掛けたクロミオは、ゼイツがテーブルの上に載せた籠へいそいそと手を伸ばした。ふかふかのパンを小さな手のひらが掴む様は、何だか微笑ましい。ゼイツが籠から透明なコップを取り出すと、クロミオはをちらりと扉へ目を向けた。
「あのさ、ゼイツさん」
「何だ?」
「ラディアスさんのこと悪く思わないでね」
小さくちぎったパンを口に含む直前に、クロミオはそう言った。息を呑んだゼイツは、それでも表情は変えずにお茶をコップへ注ぐ。少しだけ欠けた透明なコップに、深い茶色の液体が満たされていく。一つ注ぎ終わると、ゼイツはそれをクロミオの前へ置いた。
「ありがとう。ラディアスさんって昔からあんな感じなんだ。なかなか笑わないし」
「……そうなのか。昔からってことは、長い付き合いなんだな」
「うん。お姉ちゃんとラディアスさんは、小さい頃からの友達なんだ。僕が生まれる前からだよ」
クロミオの方からラディアスの話を切り出してくれたおかげで、順調に情報を得ることができそうだった。どうやら先ほどの態度はゼイツが原因ではないらしい。
クロミオが生まれる前からとなると、いわゆる幼馴染みというやつか。では本当に厚意から連れてきてくれたのだろうか? それともウルナに何か考えがあるのだろうか? 判然としない。
「素っ気ないんだけど、でも本当は優しいんだよ。一緒に遊んでくれたし、本を読んで聞かせてくれたりもしたし。お姉ちゃん、神話の本だけはなかなか読んでくれなかったからさー」
クロミオは次々とパンをちぎっては口へと放り込んでいく。本当にお腹がすいていたようだ。まずは喉を潤そうと自分の分のお茶を飲んだゼイツは、籠の中をもう一度覗き込んだ。一瞬不安になったが、十分な量はあるから足りなくなるということはなさそうだ。クロミオの表情をさっと盗み見て、ゼイツは気になった単語を繰り返す。
「神話の本?」
そう聞いてまずぱっと浮かんだのはウィスタリア教のことだった。教典のようなものであれば神話とは呼ばないかもしれないが、関係があってもおかしくはない。それはこの国を知る手がかりとなる可能性がある。パンを一つ手に取り、ゼイツは椅子へと腰掛けた。
「ゼイツさん知らないの? それともこれも忘れちゃったの? ほら、青い男を倒す話!」
「青い男? ああ、その話か」
不思議そうに首を傾げたクロミオへと、ゼイツは笑顔を向けた。そして期待通りにはいかないかとやや落胆し、柔らかいパンをかじる。
それならばゼイツも小さい頃に読んだことがあった。子ども騙しの空想、単なるおとぎ話だ。とんでもなく強い悪者を皆で協力して倒しました、というありふれた話。
「そうっ! 僕の家にあったのはボロボロだったから、ラディアスさんが貸してくれたんだ」
純粋な瞳を輝かせてクロミオは笑った。ラディアスという男は、少なくともクロミオにとってはいい兄代わりだったようだ。一体、幾つだろうか? 先日、ウルナは二十四歳になったと言っていた。ゼイツより年上だったことは少し驚いたが、一歳であればそう違わないか。ラディアスも彼女と同じくらいだと仮定すると、クロミオが物心ついた時には大人も同然に見えただろう。兄というよりは父親のような存在かもしれない。
「そうなのか、よかったな」
適当に答えて相槌を打ちつつ、ゼイツは内心で首を捻った。考えてみると、ウルナたちの両親についての話を聞いていない。あの部屋に住んでいるのは二人のようだから、教会にはいないのか。ではどこにいるのか?
『ここにいる人々は皆、帰るべき場所を持たぬ者たちばかり』
不意にウルナの言葉が思い出された。あれが本当であるなら、両親は既に亡くなっているのだろうか? ここにいるということは、ラディアスもそうなのか?
落ち着いてよく考えてみると、やはり教会についてはわからないことだらけだった。何があるのか、誰が住んでいるのか、普段皆は何を行っているのか、知らないことばかりだ。ラディアスは古代品発掘班所属だとウルナが言っていたから、古代品を探しているのは確かなようだが。それならどの国も同じだ。
前時代、その前の時代の遺物は貴重だった。技術も知識も資源も失われつつある現在では、過去に縋り付くしかない。
情報が足りない。ゼイツはパンを飲み込むと、再び透明なコップを手に取った。少しでも早く動き出したい。はやる気持ちを押さえて、彼は笑顔のクロミオをぼんやりと眺めた。
食事が終わると、勉強の時間だからとクロミオは出かけていった。教会にいる子どもたちに勉強を教えている者がいるらしい。クロミオも朝から昼まで、毎日学んでいるということだった。読み書きや簡単な歴史の話が中心で、難しい学問ではないようだ。
クロミオがいなくなり、ようやくゼイツは自由な時間を得ることができた。まだウルナは戻ってきていない。おそらく仕事が忙しいのだろう。ウルナはこの教会に住む『姫様』の付き人をしているという話だった。
彼はまだその姫とやらには会っていない。教会に姫が住むというのも不思議だし、それがどういった意味を持っているのかも聞いていなかった。そこにこの国の秘密を解く鍵があるのではと考えたりもしたが、簡単に接触できるとも思えない。
だがそのうちウルナが話してくれるのではないかと、その点については楽観視していた。彼女は口が軽い。
とはいえ、とにもかくにも些細なことでもいいから情報が必要だった。ウルナやクロミオが戻ってくる前に、少しでもこの教会の構造を把握したい。彼は拳銃と短剣を衣服の内側に隠すと、部屋を抜け出した。
目指すのは教会の奥だ。何度か歩き回った廊下へ足を踏み出し、彼は顔をしかめた。ひたすら白が広がるばかりの廊下には目印となるようなものはなく、必然的に勘に任せて進むしかない。窓へ目を向け日の方向を確かめると、彼は歩き出した。
この教会に住む権利を得ることで、誰かに見つかるのを恐れずにすむようになったのは幸いだった。何をしているのかと尋ねられたら、記憶を取り戻すために歩き回っているとでも説明しておけばいいだろう。ただし、ウルナの勘違いに乗っかっている以上、暴発の真実に近しい者に知られないよう気をつける必要があった。
教会の広さを考えると、そこに住む者の少なさには驚かされる。いや、昼間の静けさには、と限定した方がいいのか。細長い廊下を歩く者はほとんどいない。一体、普段は皆どこで何をしているのだろう? 妙な詮索を避けることができるのはありがたいが、この静寂は不気味だった。
腑の底から湧き上がる嫌悪感にも似た恐怖が、彼の体に浸透していく。この場に確かに立っているという感覚が薄い。生きている物の気配が乏しい。ただ見知らぬ場所にいるということだけでは説明できない違和感に、身の毛がよだった。
罅の入った窓硝子の向こうには、ひたすら緑が広がっている。淡い日光を浴び、強い風に吹かれて揺れる木々が、ここにある唯一の現実感だと言っていいかもしれない。
クロミオはよく庭で寝転んで空を見上げると話してくれたが、そうしたくなる気持ちもわかった。この建物にいると息が詰まる。ジブルのどの場所も決して居心地がよいとは言えなかったが、ここよりはましだとゼイツは断言することができた。
堅い床で跳ね返る靴音が冷たい。自身のものなのに他人行儀に響く。似たような扉を横目にひたすら前へと進めども、いっこうに変化は訪れなかった。誰かの声も、足音も聞こえない。見える景色も変わらない。同じ場所を歩き続けているような錯覚に襲われて、意識せずとも呼吸が速くなった。
こんな場所でよくウルナたちは生きているなと、感心したくなる。それとも慣れ親しんでしまえばこの光景も苦にはならないのだろうか?
白い床に映り込む自分の姿を、彼はなんとなしに眺めた。くすんだ金の髪も、苔色の上衣も、歪みながら曖昧に像を描いている。
すると不意に、彼の耳は足音を拾った。それは待ち望んでいたような、それでいて恐れていたような硬い響きだった。思わず立ち止まった彼は顔を上げる。誰だろう? 半ば無意識に拳銃のありかを確認し、彼は唇を引き結んだ。少なくとも今はこれを使っては駄目だと言い聞かせて、不安を押し込めようとする。
「あ……」
細長い廊下の先、右の角から姿を現したのは見覚えのある男だった。ラディアスと名乗った、あの人当たりの悪い青年だ。安堵していいのか悪いのか判断できず、ゼイツは曖昧な笑みを浮かべる。
立ち止まってしまったために、その場を動くきっかけが見つからない。親しげに話しかけることもできない。どうしようもなくて、ただゼイツは困った風に頭を傾けた。
ラディアスは真っ直ぐこちらへと歩いてきた。その表情は今朝見たものと変わりがない。無表情にも怒っているようにも見える冷たい眼差しが、ゼイツへ向けられていた。歩調も一定でよどみがない。それはこの殺風景な光景とよく調和していた。
「ゼイツといったな」
手を伸ばしても届かないぎりぎりの距離で、ラディアスは足を止めた。探るような視線には敵意以上の何かを感じる。背筋を正し、ゼイツは首を縦に振った。ここでラディアスを刺激するのは危険だと直感が告げている。
こうして真正面から向き合うと、今朝方の印象よりもラディアスは背が高かった。ゼイツよりは上だし、ウルナとであれば頭一個分は違うだろうか。筋肉質な体躯ではないためひょろりと細長く見える。ゼイツが黙したままでいると、ラディアスは嘆息混じりに口を開いた。
「ウルナがどうしてお前を助けたかわかるか?」
端的な問いかけは、それでいて核心を突いているように思えた。答える術を持たないゼイツは「いや」とだけ言って首を横に振る。鼓動が高鳴った。
嘘は吐いていない。正直な返答だ。彼女の意図がわかっていればもっと動きやすい。ただの親切でここまでしてくれるのだと、軽々と信じられるほどゼイツも人がよくはなかった。かといって予測がつくわけでもない。せいぜい、ウィスタリアの教えか何かだろうかと考えるくらいだ。しかしラディアスの表情を見る限り、それだけではなさそうだった。特別な理由があるのか。
「――それならいい」
「ラディアスは知っているのか?」
「そうだとしても話すつもりはない。ウルナはああ言っていたが、俺には一切期待するな。一人で頑張ることだな」
どこか呆れたような色を双眸に宿らせると、ラディアスは息を吐いた。そしてこれ以上話すことなどないと言いたげに、ゼイツの横を擦り抜けていく。近づいてきた時と同様、一定の歩調で靴音は小さくなっていった。
唖然と立ち尽くしたゼイツは、しばらくしてから振り返る。遠ざかる灰色の背で揺れる黒髪が、生き生きと跳ねていた。
「な、何だよそれ……」
ラディアスの姿がほとんど見えなくなると、ゼイツは呆然と呟いた。左腕の傷が、不意にまたうずいたような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます