24-3

 帰りの飛行機は実にシンプルなルートを選んだ。帰路は隠す必要がないからだ。中川路自身も、一刻も早く帰りたいという気持ちでいっぱいだった。この指輪を渡したい。見てもらうだけでもいい。こんなに素敵なのを見つけたよと、まるで子供みたいな気持ちで差し出したい。

 自分でも不思議だった。この歳になってこんな気持ちになるとは。女と見れば引っ掛けていた男は一体どこへ行ったのか。

 指輪が入ったケースが二つ。紙製の小さな手提げ袋を上から何度も覗き込んで、顔がニヤつくのを抑えきれない。そんな顔を監視役の二人に見られても気にならない。


「ああそうだ、二人ともW班の所属なんだろ?」

「一応な」

「名前、教えてくれよ。今度一緒にメシ食おうや」

「おう、メシもいいんだが、俺はその指輪の結果が知りたいなあ」

「自分も知りたい! 結果が出次第、即報告しろよ」


 小さなセスナの中は大騒ぎだ。笑い声に満ちて、眼下に小さく見える彼等の島も、まるで歓迎しているかのように……


「着陸できるのか、できないのか、どっちなんだ?!」


 突如、パイロットの怒号が響いた。小さな飛行機であるが故に、機長席との仕切りはない。


「……どうした?」

「何かトラブルが発生しているようなんだが、向こうもパニックを起こしていて、何がなんだか……」


 しかしここから近場の飛行場へと引き返す訳にも行かない。島に着陸するしかないのだ。島の片隅にある滑走路に降り立つと、車に乗り換えて研究棟へと急ぐ。

 W班の二人が慌てて電話をかけるが、応答がない。中川路も同様だ。


「何か起きてるのか?」

「分からん。とにかく、向こうに行ってみれば分かるだろう。通信が駄目になった訳じゃないみたいだしな……繋がりはするんだ、手が空かないってことなんだろうよ」

「緊急事態、か?」


 この島において緊急事態と言ったら、考え得ること、起こり得ることは山ほどある。全ての研究が危険そのものであるのだ。故に、何が起こったのかを推し量ることは簡単には出来ない。

 滑走路のある端の島から短い橋を渡って、中央の島へ。研究棟がある一番大きな島は、大きいと言ってもたかが知れている。橋を渡り切る前にもう建物は見えていて、島にタイヤが滑り込む頃には人だかりも目に飛び込んできた。


「……なんだ?」


 駐車場に溢れる、人。研究員達が白衣を羽織ったまま外に出てきている。多分、全員だ。中川路はその人混みの中に突っ込んでいった。不安を紛らわせるためだったのか、それとも。


「おい、何があったんだ? 月子さん、目澤、塩野、市村、おい、誰か……」


 恐慌状態に陥っている人間が多数いる。嫌な感覚が、頭の天辺から走ってゆく。誰でもいいからと、手近な人間を捕まえて聞こうとした時だ。


「中川路!」

「川路ちゃん!」


 聞き慣れた声。目澤と塩野だ。二人の声が耳に届いて、そこから、水を掻き分けるようにやってくる背の高い目澤の頭。中川路も人の波を突破して、目印のような頭一つ高いそこを目指した。

 合流するなり挨拶もなく、腕を掴んで喋り始める。


「帰ってきたのか!」

「何があった?」


 中川路の怒鳴るような質問に一瞬、言い淀む。二人共だ。しかしそれはごく短い時間で終わった。どうしようもないことだからだ。塩野が乾いた唇を舌で湿らせて、開きにくい口を無理矢理に開く。


「…………ミミックが……暴走、したんだ」


 ぞわり、と全身を悪寒が走る。どう返してよいのかと、言葉を失うほどに。


「暴走……」

「本体が拘束を解いた。拘束棟から離れて、今は」


 無理矢理に言葉を紡ぎ出す。その役割は自分だと、塩野自身がよく分かっていたから。


「今は……A棟に、侵入してる」

「……月子さんは」


 中川路が発することが出来た言葉はこれだけだ。喉の奥が痛い。血のような味がする。

 目澤も塩野も黙る。中川路からの強い視線を受け止めつつも、何も返すことが出来ずただ黙る。


「月子さん、は……月子さんは?!」


 何も言えない、それが現状を指し示している。それを悟ってしまえば、もうためらっている時間などない。走り出す中川路。人混みを無理矢理に掻き分けて。


「お、おい、待て!」

「川路ちゃん、待って! 危ないよ!」

「待ってなんていられるか! 月子さんがまだ、中に、助けに行かなきゃ、助けに……!」


 振り向かず、ただひたすらに前へ進む。流れに逆らい、押し退け、恐慌状態の人間とぶつかって転びそうになりながら、かっちりと整えた三つ揃いのスーツが乱れるのも構わず、息を切らし、前へ、一歩でも近くへ、前へ。行かなければ、月子のもとへ、早く……!


「おいお前、何やってるんだ! 早く退避しろ!」


 人混みを抜けたと思ったのに、中川路の前進は何者かに阻まれて終わった。研究員達を逃していたW班の軍属メンバーだ。


「飛行場まで退避して! 早く!」

「駄目だ、まだ中に月子さんが」

「馬鹿野郎! 死にたいのか?!」

「中にいるんだ! 会わなきゃ、会って、指輪を渡さなきゃいけないんだ」

「何言ってんだ? ミミックが檻から出てきちまったんだぞ! お前だってここに来た時、アレを見ただろ? しばらく待てば一旦はおとなしくなる、それまで待て!」


 最初に見せられたミミックの映像。そう、ある程度の捕食を終えると、ミミックは一度動きが鈍る。基本は捕食と停止の繰り返しなのだ。分かっている。中川路自身がそれを嫌というほど認識している。臨床実験用に小分けされたミミックの細胞片で、何度も何度もその周期を確認しながら実験を行ったのだから。


「待ってたら月子さんが、月子さんが、どんな危ない目に、駄目だ、早く、行かなきゃ……!」

「分かってねえのか?! ああもう、おいちょっと手伝ってくれ、こいつ連れてくから」


 他のW班員に呼びかけ、二人がかりで中川路を押さえ付け連行する。中川路は藻掻き、必死になって拘束から逃れようとする。


「頼む、行かせてくれ! 月子さんが、俺は月子さんに会わなきゃいけないんだ、会って、これを渡して、今日こそ言うんだ、言わなきゃならないんだ! 離してくれ、行かなきゃ、月子さんがあそこに、まだ、あの中に!」


 暴れる中川路を、目澤と塩野は黙って見つめるしかできない。しかし、目澤の腕を掴む塩野の手はこれ以上ない程に力がこもっていた。それに気付かないはずがない、既に痛い程だ。


「……目澤っち」


 視線は中川路から外さないまま、


「僕はね、僕はね」


 絞り出すように塩野は言葉を吐いた。


「馬鹿だと思う。自分のことをとびっきりの馬鹿だって、思うんだ。だから、後で僕を殴って。お願い」

「その必要はないさ。俺も馬鹿だ。お前と同じだ。三馬鹿大将はみんな揃って馬鹿なんだ」


 二人とも泣き出しそうな顔だった。どんな顔をすればいいのか分からない、それが正しいのかも分からない、だが、それしかないと。分かってしまったのだ。

 塩野は目を閉じ、思い切り息を吸い込む。吸った分だけ全て吐き出して、次に吸うのは声を出すための分。目蓋を開く。泣き出しそうな表情は掻き消えて、そこにあるのは静かな水面。


「川路ちゃん!」


 異様に通る声。一瞬気圧されて、全員の動きが僅かに鈍る。


「三秒しか保たない。いいね?」


 それしか言わなかった。だが、それだけで中川路は全てを理解した。彼が準備できたか否か、そんなものは確認などしない。中川路は前を向き、塩野は口を開く。呪縛の呪文を紡ぎ出すために。


「……地に這え、頭を垂れよ、己が影への服従を誓え!」


 言葉が鼓膜を叩いた瞬間、W班のメンバーが力なく崩れ落ちた。この島における真のセキュリティを担っていたのは、W班ではなくB班の精神科チームである。有事の際には短時間で的確に鎮圧できるよう、全ての研究員に対し言語地雷を仕掛けていたのだ。しかも、班ごとにご丁寧に分けて。

 拘束を解かれた中川路は走り出す。脇目も振らず、ただ一直線に、研究棟に向かって。しかし呪縛の効果はたったの三秒。万全の態勢において用いるのならばともかく、この状態ではすぐに復帰してしまう。すかさず目澤と塩野が押さえ込んだ。塩野の方はすがっているような状態であったが。


「川路ちゃん!」


 遠ざかってゆく背中に向かって、塩野は叫ぶ。


「絶対に、絶対に生きて戻ってくること! ちゃんとした状態で! 生きてるか死んでるか分からないとか、アタマおかしくなったとか、そんなのは駄目だからね! 生きて戻ってこなきゃ、絶対に許さないから!」


 中川路は一瞬だけ振り返り、しかしまた前を向いて走ってゆく。


「お前ら、分かってんのか?! アイツを死なせたいのか?」

「分かっている! どれほど愚かなことをしているのかなんて、分かっているんだ!」


 目澤が声を荒げた。微かに滲む涙声で。


「だが、これしかないんだ! 他にできることなんて、ないんだ!」


 泣いていた。目澤も、塩野も。

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