23 宝箱と救世主(中編)

23-1

 怖い。どうすればいいのか分からない。


 ここの施設はあまりに広い。だから、迷うのはこれが初めてではない。一度迷えば多少は分かるのだが、広すぎて把握しきれない。C班エリアなら何とか分かってきたのだが、今いるこの場所はどうやらC班エリアですらないようだ。

 困った。困り果てた。迂闊に建物が似ているものだから間違って入り込んでしまったのか。白衣のポケットに入れたままの施設案内図を広げて眺めてみる。が、ただでさえ地図を見るのが苦手なのに、迷ってしまった今更どうなる。

右を見る。該当箇所の表示と違う。左を見る。こちらもまた、該当箇所の表示と違う。ならばここの表示を案内図に見出そうとするが、分からない。多すぎる。情報量が多すぎてどこからどう探せばいいのかわからない。


「困ったなぁ」


 絞り出した自分の声が驚くほど情けない。誰かいればいいのだが人の気配はなく、助けを求めることもできない。


「どうしよう」


 思わず声に出してしまったが、余計に己の置かれた状況を認識するだけだ。せめて、現在地がどの辺りなのかさえ分かれば少しは良くなるのではなかろうか。そう思い、再び案内図を見つめる。やはり全く分からない。少し涙が出てきた。あまりにも心細い。このまま誰にも気付かれず、ただ一人衰弱していくのだろうか。いくらなんでもそれは、と否定したが、ここなら有り得る。まだ建物は拡張途中だし、いくつもの島をつなぎ合わせて作られた施設であるから広い。


「誰か、誰かいませんかー……」


 呼んでも来ない。誰もいない。どうしよう、どうしよう……どうしよう!

 すると、その時だ。足音が聞こえた。誰かがこちらに駆けてくる音だ。


「おーい、おーい……いるかー」


 しかも日本語。聞き慣れた言語が耳に届き、安堵のあまり涙が出そうになる。

 廊下の角を曲がってやってきたのは、びっくりするくらいのかっこいい男性だった。食堂で他の日本人と仲良さそうに喋っていたので、記憶にある。

 走ってきたので息が切れている。かがみ込んで肩で息をし、呼吸が落ち着いてきた所で顔を上げた。


「ああ、良かった、見つけた……よかったぁー」


 ようやく出会えた人間の出現に胸を撫で下ろす一方、いまいち状況が分からず、何と言っていいのか分からない。そんなこちらの状況を分かってか分からずか、相手はにっこり笑って肩に手を置いた。


「いや、食堂でいつも見かけてるのに、今日は居なかったからどうしたんだろうって思って……で、周りの奴らに聞いてみたら、姿が見えないって言ってたから……んで、もしかしたら、迷ってんじゃないかと」

「は、はい」

「いや、ここ無駄に広いし。ちょっと慣れないとこに入り込んだら迷うでしょ、誰だって。洒落にならないって」


 まだ少し息は切れている。はは、と笑う顔は遠目で見ていた印象より少しだけ幼く見えた。


「そうか、名乗ってなかった。俺はB班の中川路正彦っていいます」

「えっと、C班の市村文明です。……すみません中川路先生、ありがとうございました……ご迷惑をおかけしてしまって……」

「あー、先生はいらないよ。俺ら、多分歳近いし」


 歩き始めた中川路に付いていく。ここではぐれてしまったら今度こそ死の危機だ。大げさかもしれないが。


 それにしても、見れば見るほどイケメンというやつである。神様がもしもいるのなら不公平だと罵ってやりたくなるくらいの。自分とは程遠い存在だなあ、と思う。更に、ここにいるということはそれに相応しい頭脳があるということでもある。顔が良くて、頭も良くて、いい人。恵まれすぎているのではないか。

 自分なんて勉強しか取り柄がなかった。他には何もなかった。だから勉強にしがみついた。自分にもこれくらいの容姿があれば、あるいは。もしくは。


「勝手に歳近いとか言っちゃったけど、実際どうなんだろ」

「えと、二十七歳です……なったばかり、です」

「お、じゃあ同世代だ! 多いな同世代、これで五人目だ。俺含めて」

「そんなに?」

「うん。しかもみんな日本人。黄金期ってやつなのかもしれないね、この世代」


 けらけらと笑いながら話す中川路。彼の喋り方が上手いのか、あまり人と話すのが得意ではない自分でも気兼ねせず会話できている。先程まで感じていた劣等感も忘れている。すごい、こんなのは初めてだ。

 誰かと話すのは怖い。馬鹿にされそうで、怒られそうで。だからいつも気を使い、張り詰めて話す。相手の顔色を伺いながら喋る。なので、会話は嫌いだ。

 それなのに、今はそんなこと気にせずにいる。


「市村せんせ……あ、自分でいらないつっといて付けてちゃ世話ないな。市村さんは何の研究を?」

「薬学です。人体用の」

「おお、それならお世話になる可能性高いな。自分は細菌学やってます。後でお話聞かせてもらってもいいですか?」

「ぜ、是非お願いします!」


 嬉しさのあまり力みすぎて噛んでしまった。だけど、中川路は「やった」と返すだけで馬鹿にしたりはしなかった。優しい人だ。ああそうだ、優しい、と言ったら。


「あのう」

「ん?」

「どうして、分かったんですか?」


 言ったそばから「主語が抜けた」「曖昧過ぎる」「突然の話題転換」と自分の言葉の欠陥が判明する。ああ、いけない、慌てるあまりやってしまった。どうしよう、どこからどのように説明すればいいのか、ええと……


「俺だったらどんなパターンで迷うかな、って考えたんだ。で、食堂から総当りしてったら三つ目のルートで当たった」


 通じた。かなり言葉が欠けているのに。なんで? どうして?

 でも、とにかく通じた。的確に。通じたというのは正しくはないだろう。相手が理解してくれたのだ。


「早く帰ろう。流石に腹減った」


 こんな笑い方をする人だったんだ、と驚いてしまう。だって、他の人達と話している時はなんだか近寄れなかったし、そうじゃない時は大抵女性に話しかけていて、色男オーラ全開といった風だったから。

 この人なら、仲良くなれるかな。横を歩きながら、そう考えた。

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