22-7

 食堂の近くの掲示板にポツリと残されたレポート。中川路がそれに気付いたのは翌日の朝だ。表紙には綺麗な字で『アストロバイオロジー的観点からの考察』と書かれていた。


「アストロ、バイオロジー?」


 聞き慣れない学問分野だ。手に取ってぱらぱらと眺めてみると、その内容がかなり難解で高度なものだと分かる。しかし、興味を引いた。地球以外の星、銀河系、外宇宙にも生命は存在するという前提で進む考察は、限界まで可能性を探る意欲的なものだ。下手をすれば哲学的概念にまで到達してしまいそうな観点を、徹底的に観察しうる事象として分析している。一見すれば随分と突飛な論調に思えるがその実、恐ろしく冷徹な視点が窺い知れた。

 表題の下に小さく、『Atomic Team/Kunioka』とだけ署名されていた。誰も手に取らなかったレポートを、中川路は宝物でも発見したような気持ちで自室へ持って帰った。


 朝食を取った後で良かった、と中川路は後に思うことになる。レポートを読み始めたが最後、夢中になって読み漁り、寝食を忘れて連続三回読みふけったからだ。気が付けばもう夜だった。空腹を覚えたから意識が他に向いただけであって、何か食べながら読んでいたなら朝までこの状態だったろう。

 まだ間に合うか、と食堂へ走る。夕食を取るには少し遅い時間であったので、テーブルについている人間はまばらだ。

 だが、中川路は見知った顔を見つけた。つい昨日知り合いになった目澤と塩野だ。向こうも中川路に気付き、手招きする。


「遅かったねえ。何かあったの?」


 人懐っこい塩野は、ニコニコ笑いながら尋ねてくる。目澤の方は無言だったが、視線が同じ内容を示しているのはすぐに分かった。


「凄いレポートを読んでね。いや、何であれが残っていたのか不思議なくらいだ」

「へぇー、何班の?」

「A班。アストロバイオロジーって分野を、原子核物理学視点から分析してる」

「へぇぇぇぇ、ムズカシそう」

「実際難しかったけど、いやあ、面白いよ」

「A班か。俺はまだ、自分と同じ分野のレポートしか読んでないなぁ」


 二人はにこやかに話してくれるが、彼等の食器は空っぽになっていて、食事を終えた後もしばらくここにいたことが分かる。


「……もしかして、待っててくれてた?」

「ああ。昼飯を食ってないだろう? このまま夕飯も食わないなら、適当に包んでもらって部屋に持っていこうかと話していたんだ」

「ありがとう。心配かけたな、すまん」

「いいってことよー! ただしオトシマエはつけてもらうぜェ」


 満面の笑顔である塩野に対し、目澤は渋い顔。「本当にやるのか」とか何とか呟いている。


「落とし前?」

「おうよ! 今日から君のことは、川路ちゃんと呼ばせてもらうッ!」

「……ハァ?」

「で、こっちは目澤っち」


 さらっと言ってのける塩野。思わず吹き出す中川路。目澤の顔はますます渋くなり、同い年とは思えない程の迫力になってゆく。


「こ、この顔で、目澤っちって、それはいくらなんでも」

「そうだ! 普通に呼んでくれ!」

「僕にとってはこれくらいが普通だよー」

「なら、世間一般レベルにまで普通の水準を引き下げてくれないか?」

「何を仰るか、この狭い世界で世間一般の常識なんて意味など成さぬ!」

「ひっでえ! なんかカッコイイこと言ってるけどほとんど意味がない!」


 馬鹿な会話を繰り広げ大騒ぎする三人を、まばらに残っている他の研究員が笑いながら見ている。この三人に『三馬鹿大将』という実に不名誉な称号が冠せられるのも、このすぐ後である。





「三馬鹿大将だけはなんとか回避したかったなぁ」


 手酌でバーボンを注ぎながら、中川路がぼやく。


「無理っしょ。僕ら馬鹿やりすぎたもん。無理矢理に餅米輸入して年明けに餅ついたし、温泉めっけたからって強引に露天風呂作ったし、あれ、流しそうめんはやったんだっけ?」

「いや、それは断念したんだ。塩ビ管で流しそうめんは悲しすぎるとか何とか、塩野が言ったんだろうが」

「そうだったー目澤っちの言う通りー」


 あまりの内容に、相田も網屋も笑っていいのか悪いのか分からない。三人はケタケタと笑っているから、まあ、大丈夫なのだろうが。


「おっしゃ! んじゃ、次は川路ちゃんのトキメキ馴れ初め話行ってみようか!」


 塩野が振った突然の話題転換に、中川路が目を白黒させる。


「い、いや、それは端折ってもいいんじゃないか?」

「ダメ。全部話すって決めたでしょおー? 餅つきも温泉も話すし、つっこさんのことも話すの」

「そうだな。順番としては月子さんの話になるな、どうしても」

「目澤まで……勘弁してくれよぉ……」


 手で顔を覆って沈み込む中川路は、いつもの色男ぶりが鳴りを潜め、まるでその辺のニイチャンのようだ。珍しい光景に若者二人は目を見張った。よもや、こんな状態の中川路を拝む日が来ようとは。


「月子さん、ってどんな人なんですか?」

「川路ちゃんがベタ惚れした女の人」

「マジか!」

「すげえ!」

「何だその物言いは! 君らねぇ、俺のことを本当になんだと思ってるんだ?」

「イケメン独身貴族」

「女の敵。あとモテナイ村の天敵」

「なんだいその、モテナイ村っていうのは」

「オラ達の住処だべ。恋愛に縁のねぇやつが住むとこだぁ」

「オラと先輩が住んでるだよ。イケメンは全て祟り神だし、リア充はオラ達の村を焼き討ちに来るだ」

「オラ達の村はいっつも焼かれてるんだぁ。そこの目澤先生とかが焼きに来るだ」

「俺か?!」


 酒はそこそこに回っている。全員の口がよく滑る。

 しかし、そうでなければ話せないこともある。例えば、これから中川路が話そうとしていることであるとか。ささやかな思い出のひとつすら、彼にとっては甘く、そして苦い。それが暖かいものであればあるほど中川路を苦しめる。

 この十年間に渡って彼に呪いをかけ続けた、その切っ掛け。

 酒で喉を焼いて、哀しみの声は漏れないようにしてから、中川路は口を開いた。

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