18-2

 今年度のJSB1000第七戦は、九月最初の土日に行われる。


 網屋がレース観戦に赴いたのは日曜日だ。会場は関東、茨城県にあるサーキット。

 三人の医師達には事前に報告済みである。ここ最近は襲撃もなくそこそこに平和であるので、気兼ねせず行って来いと言われた。何かあったらすぐに連絡をよこして欲しいと念を押しておいた。

 車で行く最適ルートは相田にレクチャーしてもらった。車と道路のことなら相田に任せておけば間違いはない。ゆっくりしてらっさい、などと言われて、ゆっくりしてきまさぁ、と返した。


 サーキットという場所に来たのは八年ぶりのはずだ。相田のカートレース大会を、家族総出で観戦した記憶がある。懐かしい記憶だ。

 相田も一緒に連れてくれば良かっただろうか。シグルドはバイクレースも守備範囲だったろうか。そんなことも考えたがもらったチケットは一枚。一緒に観戦はまたの機会に回して、今日は一人で堪能することとする。


 観客席に座り、サーキットへと目をやる。椿の所属するドラグーンレーシングファクトリーのチームカラーは赤であるので、赤い群れがいるピットを端から探す。赤いレーシングスーツに赤い髪はすぐに見つかって、まあ我ながらご執心なことだと半ば呆れた。

 どのピットも同様であるが、空気が限界まで張り詰めている。最短で最善を尽くすべく全力を注ぎ込んでいる。

 そんな様を見ていると、ああ格好良いなあ、すげえなあ、住んでる世界が違うなあ、などと子供のような感想を抱くのだ。



 棲む世界が、違う。それはとてもよく分かっている。嫌という程。

 だから本当は、極力関わらない方が良い。いつ、どこで、何があるか分からない自分の生き方に、日の当たる道を往く人を巻き込んではいけない。

 本当は相田だってそうだ。巻き込んではいけない立場の人間だ。それなのに今の今まで、そしてこれからもこのままでいるのは、単に己の極端な「甘え」だ。

 我ながら、クソみたいな人間だな。実にクソだ。


 そんなことを考えていた時だ。ふと、椿と目が合った。気がする。向こうから見れば観客席の有象無象、居並ぶジャガイモの一人に過ぎないのだろうが、それでも目が合ったような気がする。

 笑顔で手を振る椿。思わず、条件反射的に手を振り返してしまった。

 これで相手が自分ではなかったらとんだ赤っ恥だが、別にそれでもいいような気がしてきた。そんなもんはひどく瑣末なことだ。根本的な問題から見れば、その恥すら暖かく感じる。

 今日のレース頑張れ、と握り拳を作って軽く掲げる。すると、椿も同じように拳を掲げてみせた。確かに、目が合った。

 誰かに呼ばれ、椿はすぐにピット内へ引っ込んでしまう。あとに残るのは誰も居ない空間ばかりだが、その瞬間の記憶は脳裏に焼き付いて離れない。


 何だか変な笑いが零れそうになって、あわててペットボトルの茶を口に運んだ。





 同日、夕方。


『相田君さ、ちょっとコキ使われてくれないか』


 中川路の言い様は実に明確で大好きだ。相田は中川路からの電話を取るなり吹き出してしまった。


「いいですよ、どんな御用でしょ」

『三人で飲みに行くから、車を出してもらってもいい? 勿論、夕飯おごるから』

「うおっ、やった! 行きます! 地の果てまでも行きます!」


 レース中継も見終えたタイミングだ、丁度良い頃合いである。

 今日の椿の走りは冴えていた。化け物じみてさえいた。昨日もあのコンディションであったなら良かったが、そう都合よく行かないのがレースというやつだ。


 さて、相田は喜々として指定された場所へ向かった。カーナビゲーションに電話番号を入力し、指示された通りにたどり着けば、そこは高級そうなマンション。

 どこに車を停めようか迷うまでもなく、既に例の三人は外で待ち構えていた。いつものスーツ姿ではなく少しラフな格好であるのは、今日が休みだからだろう。


「これ、相田くんの車だよね?」


 乗り込むなり尋ねてきたのは中川路だ。この三人の中で最も車に金をかけているのは彼だ。


「そうです。あ、そっか、これに乗せるの初めてか」


 網屋の四駆での迎撃が多い故に、相田自身の車で出るのは初であった。後部座席から塩野が顔を出す。


「やっぱさ、こう、ドッギャアアアとかゴゥワァアアとかプシューとかいっちゃう感じ?」

「いわないです。片輪落としもしないし地獄のチューナーもいません」

「ざーんねーん」

「多少はいじってありますけどね。でも、自分用に合わせてるだけで、特に何かしてるわけでもないですよ」

「だってこれ、そんなにいじくる必要ないでしょ。十分速いし。ねえ相田君」


 中川路はこの車の何たるかを知っているようで、にやりと笑って合いの手を入れてくる。へへ、そうですと手短に返す。


「さて。それじゃ、深谷市の市役所方面へ頼む」

「はい、了解」


 助手席の中川路が勝手にカーナビを操作し、既に目的地の入力が完了している。場所は市役所のある大通りから一本横に入った細い道。通ったことはあっただろうかと思い出しながら車を発進させる。


「今日はねえ、網屋君がいないってことで、相田君にゴハンを食べさせてあげようの会なんだよ」


 そう言う塩野のテンションは、小学生がクリスマス会に参加する時のそれに近い。


「相田君、真に受けるなよ。半分は本当だが半分は嘘だ」

「目澤っち、なんでそーいうこと言うかなぁー。積極的に恩を着せていこうよ」

「馬鹿者、着せるな。そして本人の前で言うな」


 いつもの調子で言い合う塩野と目澤。いつぞやの「弔いのための宴」ではないようで、相田はひと安心した。哀しみを塗り潰そうとしている彼等を見ているのは、ちょっと辛いから。


 県道を西へ進み深谷市に入る。そのまま行くと混雑に巻き込まれる恐れがあるので、早い段階から横道に突入した。通りはいわゆる商店街というやつで、前に抜け道として通ったことがあるのを思い出す。記憶が正しければいくつか酒蔵もあったはずだ。

 指定された砂利ばかりの駐車場から少し歩く。辿り着いたのは、随分古風な酒蔵跡だった。ドラマに出てきそうな古い建物、ひなびた煉瓦の隙間を縫って進むと、赤提灯が見える。

 赤提灯横の縄暖簾をくぐると、人懐こそうな店主が出迎えた。


「大将、お久しぶり」

「いらっしゃいませ」


 店舗の面積はかなり狭い。本当に小さなカウンター、小さな台所、小さな座敷があり、カウンターには椅子の代わりに小さな酒樽が置いてある。


「食材、多めに用意しろって仰ってたので、めいっぱい用意しましたよ」

「お、良かった良かった。相田君、食い尽くしてやるが良い」


 座敷に四人が座れば、もう店の中は満員だ。出されたお通しをつつきながら聞くと、本日は予約貸切状態なのだと言う。

 何でも、店主の本業は酒蔵の蔵人であるそうで、その仕事が無い時期のみこの店は開く。中川路達はそのタイミングを狙いすましてやってきたのだ。


「今日は何があるの?」

「いつものと、あとは濁りも」

「やった、ついにきた、濁り酒!」

「ついでにモヤシも」

「モヤシ?」


 ここ深谷市で生産されているのが、細めのモヤシである。手間暇を随分かけているためモヤシにしては高めの値段ではあるが、それを納得させる味と品質。埼玉県深谷市と言えばネギが有名であるため影に隠れがちだが、そこそこの名産品なのだ。


「大量に仕入れてしまいまして。仕方ないから半分は天日干しにしてみました。タタミモヤシ、的な」

「タタミモヤシ?」

「食べてみます?」


 そう言って差し出されたのは、確かに「タタミモヤシ」としか表現できない物体だった。シート状に乾燥させた、モヤシ。切り干し大根にも似ている。

 適当にちぎってつまんでみると、思いの外しっかりと味がある。


「このモヤシは味が濃いので、結構いけるでしょう」

「……なんだろ、これ……クセになる……」


 もそもそとタタミモヤシを頬張る相田。


「何て言ったら良いんだろう、うまく表現できない。アリかナシかで言ったら、断然アリですね」

「でしょう」


 勿論、あるのはモヤシだけではない。煮物、焼き物、そして突然のイタリアン。昼はパスタ屋として稼働しているからだ。


 三人はしこたま飲み、相田はしこたま食べ、夜は更けた。炭水化物を中心に摂取したため、腹持ちが予想よりはるかに良いのが相田にはありがたかった。

 あまりの食事量に最初のうちはドン引きしていた店主であったが、途中から妙なスイッチが入ってしまったらしく、この欠食青年に「腹いっぱい」と言わせるべくあの手この手を使ってきたのだ。本来ならば昼にしか出さないイタリアンを引っ張り出してきたのもそれが原因だ。

 ポテトとアンチョビのグラタンが、綺麗に入ったボディブローの如く効いてくる。相田にしては珍しい、かなり腹が満たされた状態。三人の医師の懐具合はどうだろうか。

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