18 観戦と参戦

18-1

 鮭の西京漬けの焼ける匂いがする。味噌汁の具は豆腐と油揚げ。

 素晴らしい。比類無き組み合わせだ。


 相田は匂いだけで耐え切れず、勝手に炊飯器から白米をよそってカブの甘酢漬けと共に食べ始めていた。漬物のたぐいがあればいくらでも白米が食える。切り干し大根の煮物もあるので尚更食える。


「おい、もうちょっとだから耐えろ。米が無くなっちまうぞ」


 と網屋は言うが、これだけ破壊的な匂いを撒き散らされては無理というものだ。


「そしたらまた炊きます」

「炊くの? 食うの前提?」


 半分笑いながら応える網屋だが、相田の言葉が半ば本気だということも知っている。米を炊くよりも、冷凍庫の中に入っている冷凍うどんを茹でてやった方が良いかな、と考える。


 魚が焼けるのは早い。味噌汁は小ぶりの丼に盛り付ける。主菜と主食と汁物をテーブルに乗せて、ようやく網屋は椅子に座ることができた。

 ぽん、と音を立てて手を合わせる。


「はい、いただきます」

「いただいてます!」


 いつも通りの食事風景であるはずなのだが、相田は微妙な違和感に気付いていた。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけなのだが、網屋が上の空……のような、気がする。

 気になったら即質問、が相田の信条だ。であるのでさっそく口を開こうとした。が、網屋の方が速かった。


「あのさ、一つ聞いてもいいか」

「はい、なんでしょ」


 網屋の顔付きは真面目で、こいつは気合を入れて返答せねばなるまいと覚悟する。


「ええとだな……椿さんってさ、彼氏とか、いるんだろうか」

「……は?」


 どんな質問が来るのかなんて想定してはいなかったが、それでも自分の予想範疇を遥かに飛び越えて未知の領域だ。

 言語にならぬうめき声の返答に、網屋は勝手に言葉を続けた。


「いや、椿さんて美人じゃないか。彼氏くらいいるんだろうなと」

「いやいやいやいや、アレに彼氏なんていないですよ。いるわけがないじゃないですか。少なくとも、俺はそんな話聞いたことないっすよ」

「……ん、そっか」

「なにコレ! なにその間!」


 網屋は箸を止めて、深く深く溜息をつく。吐き出す息と共に体もしぼんで、すらりとした体格のはずがどんどん小さくなってゆく。


「なんかさあ、俺さあ」

「はい」

「椿さんに、惚れちゃったっぽいんだよねぇ」

「…………はぁア?」


 普段から面倒を見てくれる兄貴分としての網屋も、冷徹な顔で眉一つ動かさず銃弾を放つ網屋もそこにはいない。箸を持ったまま小さくなって声を絞り出す、彼女いない歴イコール年齢の男しかいない。


「いやな、その、今日さ、椿さんからレースのチケット貰ったんだよ」

「あー、九月頭のやつっすね」


 今日は日曜日、網屋が昼食をグリズリーコーヒーへ取りに行く日だ。前は土曜か日曜のどちらかだけだったのだが、ここ最近は土日とも通っているらしい。椿がいい感じのゲス顔で揉み手しながら「顧客を確保したぜよゲッヘッヘ」とか言ってたので覚えている。

 で、日程が一番近いJSB1000のレースは九月に行われるものだ。このレースはスーパーフォーミュラとの併催であるので、相田もよく憶えていた。

 ここまでは良かった。相田にも分かる内容だ。


「で、だな。貰った時、異様なまでに嬉しくて……こりゃおかしいなと」

「おかしいなと」

「そんでだな、よくよく考えたら、こりゃもしかして惚れちゃってんじゃないかと」

「はあ」

「だってさあ、他に説明のしようがないんだよぉ……前からおかしいなとは思っちゃいたんだが……」


 ついには持っていた箸さえ手放し、頭を抱えてうめく。これ幸いとばかりにまだ手を付けていない西京焼きを一切れ丸ごと奪取したが、なんと全く反応がなかった。これが通常時であれば必ず阻止されてしまうのに。

 なるほど、こいつはおかしい。色々おかしい。


「先輩、ゴリラだったんですか。いやあ、俺そういうの否定しないけど」

「なんでそうなるんだよ! ゴリラじゃねぇよ!」

「最初に言ったでしょ、アイツはゴリラだって。生物学上としては辛うじて人間だけど、中身は立派なゴリラだって。イケゴリラですよ」

「イケメン要素が強いのは分かるけど、椿さん十分可愛いだろうが」


 網屋が放った「可愛い」という言葉に、相田はそれこそ眉をひそめて顔を覗き込む。


「……黙って立ってりゃ美人だ、っていうのは分かります。だけど先輩、椿が生きて動いてるとこ、見たでしょ?」

「珍獣みたいな言い方すんな」

「珍獣みたい、じゃなくて珍獣そのものっすよ! つうか猛獣じゃわいあんなの!」

「猛獣言うな! お前の言いたいことはよく分かるけど猛獣言うな!」


 一通り言い終えると、網屋は奪われた西京焼きを取り戻してから再びうなだれてしまった。


「……俺だってよく分かんねーよ……伊達にモテナイ村で二十三年も門番やってねーよ……」


 高校一年まで青春を陸上競技に費やし、その後は復讐に全て捧げて生きてきたのだ。恋愛なんて縁のない人生である。故に、本当にどうすれば良いのか分からないし、知らない。

 それは相田だって同じようなもので、青春なんてものは全部レースにつぎ込んでしまったし、それ以降はよく分からないまま過ごしてしまった。今だって本音を言ってしまえば、女より車なのだ。


 ただ、網屋が本気であることだけはとても良く分かる。こんなことで嘘を付くような人物ではないし、それを差し引いても、もっと奥の部分、心の部分できちんと理解は及んでいた。


「まあ、彼氏とかいないってのは確実だと思います。みさきちゃんが『彼女』なんじゃないかって噂があったくらいですからね。当のみさきちゃんは、ホラ、あれでしょ。目澤先生っしょ」

「そう、目澤先生。おめでたいね。まばゆいね」

「めでたすぎて直視できない」


 彼等の知らぬところで未知なる力が働いて目澤とみさきがくっついたのは、既に知っている。彼等にとってはそれこそ「未知のちから」なのだ。みさきにはきっと彼氏がいるに違いない……と思っていた時期があっただけに、驚きは隠し切れない。

 モテナイ村の住人を自称し、ねたみとひがみとそねみを三種の神器として奉る相田と網屋であるが、何故かこの二人のことは素直に祝福していた。邪気がないからなのか、それとも、みさきが頑張っている姿を見たからなのか。


 ふと、そのみさきの必死であった姿を思い出し、相田はこんなことを言ってみる。


「先輩もさ、いっそ告ってみたら」


 網屋も立派な「イイ男」の部類だと相田は思っている。こと精神面においては太鼓判を押したい。

 もしかしたら、案外簡単にうまくいくのではなかろうか。そう、思ったのだが。


「……いや、そりゃ駄目だ」


 微妙にずれた回答が帰ってきた。無理、ではなく、駄目。


「駄目って、どうして」

「俺みたいな立場の人間が、普通の人にちょっかい出しちゃ駄目だろ」


 相田は言葉を失う。顔色が変わったのを見て、網屋は自嘲的な表情を浮かべた。


「俺らみたいなのはさ、本当は同業者で相手を探すのがいいんだろうな。その方が色々と、心配はない」


 軽く発言しておきながら、それでもやはり悲しさは僅かに滲む。


「お前をここまで巻き込んでおいて言えたクチじゃないけどさ。でも、なんつーか……やっぱ、駄目なもんは駄目なんだよ」

「それじゃ、先輩が辛いじゃないっすか」

「仕方ねえさ。自分で選んだ進路だからな」


 わざと大袈裟に肩をすくめて、網屋は最後に一つだけ残っていたカブの甘酢漬けを口中に放り込んだ。音を立てて咀嚼される漬物。


「まあ、しばらくはこの浮ついた精神状態を堪能するよ。これはこれで、楽しいもんだ」

「ホントに、大丈夫ですか」

「おう。とりあえずはレース観戦から。レースなんて、ガキの頃にお前の一度観に行って以来だな」


 網屋は笑ってやり過ごそうとしている。であるので、相田はそれ以上の追求をやめた。

 当然、もやは晴れないままであったが。

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