17-9

 さて。

 中川路の言葉に鞭打たれようとも、時間は無情に過ぎ去ってゆく。半ば朦朧とした状態で帰宅すればもう六時過ぎ。早くに切り上げたつもりがこのザマだ。

 慌てて片付けをする。根本的にあまりものを置いていないので、それほど片付ける必要はないのだが、それでも落ち着かないのだ。


 ああそうだよ。中川路の言う通りだ。随分前から諸症状は出ていた。分かってはいたんだ……


 そこで玄関のチャイムが鳴った。

 しまった、汗を流していないし着替えてもいない。どうしようどうしようと困っても既にどうしようもないのだ。

 ダッシュで玄関に向かい、鍵を開ける。よく考えたら、相手が誰か確認もせずに解錠してしまっている。


 まあ、当然やってきたのはみさきであるわけで、彼女が持っている大量の荷物を見た途端「持ってやらねば」と思考が切り替わってしまったのであるが。


「こんばんは。お邪魔します」


 ノースリーブのブラウスに、膝が隠れる程度のスカートという軽やかな出で立ち。今日はやたらと暑いので、これくらいが正解だ。


「重いだろう、持つよ」


 大きなレジ用のかご。いわゆる「マイかご」というやつだ。その中に食材が山ほど入っている。目澤にとってはどうということのない重量だが、みさきには重いだろう。問答無用で受け取り、台所へ運んでしまう。


「あ、今日はパスタか」


 かごの隙間から、ちらりとスパゲッティの袋が見えた。後から追いついたみさきが説明を加える。


「今日は暑いので、冷製パスタを作る予定です。あ、今日『も』暑い、だった」


 目澤に向かって微笑むみさき。そうだね、などと返しながら、内心ではこんなことを思ってしまう。

 ああどうか、その笑顔が、心からのものでありますように、と。





 今週もやはり、前と同じく順調に事は過ぎていった。

 食事をしながら他愛無い話などして、片付けまでこなしてもらい、残った食材のうち保存が効きそうな物は冷蔵庫へ。少し余計に惣菜を作ってもらったので、そちらはタッパーに詰めてもらった。


 来た時とは違い、随分と身軽になった状態でみさきは玄関へ向かった。時間はもう夜の九時になろうとしている。

 あまり留めるのもよくない。そう、目澤は小さく呟く。


「それでは、また来週もよろしくお願いします」


 よろしくお願いするのはこちらの方であるというのに、みさきは律儀に頭など下げたりするものだから、目澤は同じように頭を下げるしかできない。


 くるり、こちらに背を向けて、下にバッグとかごを置き、その片足を伸ばして、爪先が華奢なミュールの中へと吸い込まれてゆく。



 その靴を履いたら、帰ってしまう。

 彼女はドアを開け、そしてドアは閉まるだろう。空っぽの玄関を残して。

 また一週間。次に会えるまで、一週間。


 なんと長いのだろう。一晩でさえ、ひどく長く感じられるというのに。


 俺は、俺はどうしたいんだ。俺は何を考えているんだ。

 俺は……


「帰らないでくれ!」


 我知らず、目澤はみさきの肩を掴んでいた。まだ足は靴を履いていない。驚いて振り向くみさき。

 いつもなら、この時点で我に返っていたことだろう。しかし、今回は違った。頭の中から色々なものが吹っ飛んでいた。

 言葉は衝動的に口から飛び出す。

 もう駄目だ、止められない。


「頼む……まだここに、いてくれ。そばにいて欲しいんだ」


 目澤自身が、誰よりも状況を把握していなかった。ただ彼は幼い子供のように、思い浮かんだことを口にするだけ。


「本当はずっと、そう思っていた。君が帰ってしまうたび、引き止めれば良かった、もっといて欲しかったと……でも、俺はその気持ちを否定していた。直視しないようにしていた。君と俺とではあまりに歳が違う。こんな想いをぶつけられたら迷惑だろうと、きっと嫌われるだけだろうと考えていたからだ。俺はひどく臆病で、ちっぽけだった」


 みさきの肩に置いた手が、熱い。


「自分の気持ちなど見なければ良い。ずっと、今の関係が続けばそれで良い。それが最も優れた選択だと信じていた。信じようとしていた。しかし……申し訳ない。もう、駄目なんだ。限界だと気付いてしまった」


 言葉はまるで、血のような味。己の中身を抉り出し、目澤は全てを吐き出した。


「……俺は、君が好きだ。みさき君のことを、一人の女性として、好きなんだ」


 息を呑むみさき。


「だから、どうか……そばに、いてほしい」


 みさきの瞳は大きく見開かれ、真っ直ぐに目澤を見つめている。その大きな瞳から、溢れるように涙がぽろり、流れた。


 目澤はようやくここで我に返った。自分の感情を一方的にぶつけるばかりで、相手のことを何も考えていなかったではないか。

 一挙に血の気が引く。自分が嫌われるだとか、そのような問題ではない。問われるべきは、相手に対しどれほどの不快感を与えてしまったのかだ。


 弾かれるように、肩に置いた手を除けた。謝らなければ。が、どんな言葉をかければ良いのか。一体……


「私も」


 目澤よりも先だった。みさきは涙を流しながらも、はっきりと言った。


「私も、好きです」


 ただ真っ直ぐに見つめる瞳。頬は赤い。


「初めてお会いした時から、ずっと、ずっと、好きです」


 涙は止まらない。ぽろり、ぽろり、幾筋も光って流れ落ちる。言葉にしてもまだ足りない感情が、涙の形をとって溢れ出しているのだ。

 自分が泣いている事実に後から気付いたみさきは、慌てて涙を拭う。いくら拭っても追いつかないのだが。


「あの、ごめんなさい、私、嬉しいのに……涙が、とまら、なくて」


 言い終えるよりも先に、目澤はみさきを抱き寄せた。両腕の中に収まってしまう、華奢な体。

 細い腕を精一杯伸ばして、しがみついてくる。そんなみさきをもっと強く抱きしめて、絶対に離さないと誓う。己自身に。


 そして目澤は、こう告げた。


「君の全部を、俺にくれ」

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