17-8

 仕事を終えて自宅に帰って、とりあえず風呂に入る。困った時は風呂に入って忘れるように努める。湯船に浸かってぼんやりしていれば、まあ、大体の事は忘れるから大丈夫だ。

 湯船の中で寝てしまわないように気を付けながら、目澤はぼんやりと天井を眺めた。


 今日はやけに疲れた。昼の詰問が効いているのだろうか。結局、午後はずっとそのことが気になって落ち着いていられなかった。

 落ち着いていられなかったということは、自分自身でも引っかかっているということなのだろう。


 では、どうなのか。

 自分は、みさき君のことをどう思っているのか。


 のぼせかけた頭で、ぼんやりと彼女のことを思い浮かべる。

 優しい子だ。こんなしがない中年に弁当を作ってくれて、しかも夕飯の心配までしてくれる。今時、そんな子がいるだろうか。いや、年齢の問題では無いだろう。そもそも、そんなに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる人がいるかという問題だ。

 助けてもらった礼に、と言っていたが、彼女に必要以上に気を使わせていまいか心配だ。苦痛になってはいないか。義務になってはいまいか。


 それにしても、毎週来てくれるのは非常にありがたい。いっそ、夕飯も毎日作ってくれればいいのに。

 ……いや、それは我儘というものだろう。弁当だって日曜を除く毎日作ってもらっているのに、夕飯までなど……それではまるで、奥さんじゃないか。中川路が言っていた通い妻という言葉が、冗談ではなくなってしまう。


 目澤は浴槽に寄りかかったまま、少しづつずり下がってゆく。湯船に肩が沈み、耳まで沈み、最後には頭の天辺まで沈んで、水中からぶくぶくと吐き出される二酸化炭素だけが外に出る。それすらも止まり、更に時間が経ってからようやく目澤は体を起こした。バネ仕掛けの如く、である。


「……俺は何を考えているんだ!」


 絶叫が浴室に響き渡る。声が反響して余計に耳を叩く。叫んだ後、しばらく肩で息をしていたがなんとか落ち着かせることに成功した。辛うじて、だが。


「なっ、何を、一体」


 一度浮かんでしまった思考は、もう目澤の頭から離れない。いや違う、本当はもっと前から思っていた、それが顕になっただけではあるまいか。


 ……いっそ彼女が、自分の奥さんであってくれたら良いのに。


 一気に顔が赤くなる。発赤かと思うほどに熱い。邪な考えを振り払おうと頭を振るが、水飛沫が散るばかりでどうにもならない。

 目澤は湯船の中で小さく縮こまり、頭を抱えて「ああ……」と呻くことしかできなかった。





 土曜日。陣野病院。午後。


 外来の診療業務をようやく終えた中川路は、電子カルテを確認した後、思い切り伸びをした。随分と背中が凝り固まっていて、今日も一日よく働いたなと実感するのだ。

 片付けを手伝ったら撤退しようかと考えていると、診察室の奥から誰かがやってくる。


「中川路先生、ちょっといいか」


 顔を出したのは目澤だ。勤務時間中の診察室内では互いに「先生」を付けて呼び合う。

 彼はやけに神妙な顔付きであった。


「はい、何でしょ」

「少し診てもらいたんだが」

「え、この前に健診やったばかりだろ。何かあったか」


 患者用の椅子を勧め、電子カルテを職員用フォルダから引っ張り出す。

 病院内職員の定期健康診断はつい先週行ったばかりで、その時に異常は一切認められなかった。何か見落としていたのか。それとも、最近流行っている夏風邪か。


「動悸がおさまらないんだ。あと、胸がちょっと苦しい」

「いつから?」

「今朝だな。起きてから、ずっと」

「他に何か、気になることは」

「熱っぽいような気がする。熱は無いと思うんだがなあ」


 白衣を脱がせ、シャツをまくり上げて聴診器で聴診。心音、呼吸音共に正常。発赤、麻疹等もなし。

 体温計で熱を計ってもらう間に、問診を続ける。


「喉が痛いとか、鼻水が出るとか、そういう症状はあるか?」

「いや、その辺はない」

「動悸は絶え間なく続いているか?」

「そこまでではないなあ」

「どういう時に動悸がひどくなる?」

「うーん……こう、仕事が一段落ついた時とか、意識がそれた時とか、休憩中とか」

「要は、集中していない時ってことか」

「そうだな」

「胸が苦しくなるってのは、どんな感じだ」

「呼吸は問題ないんだが、そうだな……こう、胸部を圧迫される感じに似ているかな」

「そっちはどうだ、いつもその状態か」

「いや、こちらも動悸と同じようなタイミングだな」


 中川路はカルテをしばらく見つめ、深く深く溜息をついた。残念ながらその諸症状の原因が分かってしまったからだ。これで見立てが間違っていたとしたら、もう医者なんぞ引退すべきだろう。


「あのなあ、目澤」

「おう」

「これ、俺の専門外だわ」

「最初から循環器に行った方が良かったか」

「いや、どちらかと言うと、ここを出て左斜め向かいだ」


 内科外来第三診療室を出て左の斜向かいにあるのは、塩野のいる精神科外来。

 どういうことかと首を傾げる目澤に、中川路は椅子に座ったままにじり寄った。


「なあおい、診断名、欲しいか」

「お、おう」


 気圧されて引き気味の目澤。そんな彼にもはっきり聞こえるように、中川路は老人患者用の速度で一音づつ発する。


「恋患い、だ」


 丁度良く電子体温計が鳴ったので取り出して見れば、案の定平熱。もう必要ないので電子カルテ用のパソコンは電源を落としてしまう。

 診断名を告げられた目澤はみっともない顔。口も半開きだ。


「こい、わずらい」

「そうだ。温泉に浸かっても治らないやつだ」

「いや、しかし、動悸が」

「そんなアホなこと口走って許されるのは少女マンガだけだ!」


 きっぱりと言い切られ、言葉を失う。

 中川路は三色ボールペンの尻で目澤の胸部をつつきながら、更に続けた。


「いいか目澤、よーく聞け。疾病ってのは、診断名を与えられたから症状が出るのか? 違うよな。元から症状があるから、疾病が存在するから診断名が与えられるんだ。今朝からなんて間の抜けた事言ってんじゃねえ、もっと前から自覚症状はあったはずだ!」


 一言一言が、重い。しかも鋭い。それら全てが目澤を容赦なく抉る。


「ディナーに誘った時は? 夕飯を作りに来てくれた時は? 弁当を届けにお前の部屋まで毎朝来てくれる、その直前は? お前のノミみたいな心臓はどんな挙動をしていた? そりゃもう心臓バックバクいってたろ。そもそもだ、好きでもない相手にそこまで熱入れるわけが無いんだよ。本当に何とも思っていないなら徹底的に無関心になる。前の嫁さんの時がそうだったろうが!」


 見事に全て図星。その無関心が功を奏して離婚にまで至ったのは流石に自覚している。

 単身赴任中に前妻が他に男を作り、自宅にほとんど戻ってすらいない事実に全く気が付かなかったのは、とにかく無関心であったからだ。しかも、その事実を知っても怒りすら湧いてこなかった。それは何故かと問われたら、解答はただ一つ。好きでも何でもなかったから。


 それが今はどうだ、みさきの反応が気になって気になって、嫌われやしないかと一喜一憂。顔を見れば嬉しくて、それが笑顔であるなら尚更。


「自覚すんのが怖いって態度が丸見えなんだよ。ったく、もう八月だぞ? 出会ってから半年だぞ? さっさと自覚しちまえばいいものをウジウジウジウジ引き伸ばしやがって、お前はそれでも男か! 泌尿器科に行ってナニがついてるか確認してもらえ!」


 診療室内ではスマートさを保っているはずの中川路であるが、完全にその余裕は吹っ飛んでいた。珍しい光景に研修医が目を見張る。その視線に気付いたとしても、止められる勢いではなかっただろう。


「今はまだ恋だ。告げない限り、恋は恋のままだぞ。さっさと告って愛にしろ」

「いや、でも、だが、相手は学生だぞ? が、学生、学生なんだぞ?」

「学生学生って何だ! 読経か何かか! 学生は学生でも大学生じゃないか。何年生だか言ってみろ」

「……三年」

「最低で見積もっても二十歳だろ。今年二十一になるんだろ? 立派な大人だろうが!」

「うっ」

「おうおう、何だァ、フラれるのが怖いってか? そんなん誰だって怖いわ! もしフラれたらフラれたで綺麗すっぱり諦めろ!」


 痛かった。容赦なく押し付けてくる三色ボールペンも、言葉も。萎れているのか呆けているのか微妙な目澤に向ける中川路の視線は、どこまでも冷たいままだ。


「診断は以上。処方箋はなし。出てけ!」


 ボールペンで出入り口のドアを指し示され、目澤はすごすごと診察室を出て行った。


 

 背後で片付けをしていた看護師の一人が、忍者の如くするすると忍び寄り中川路の肩を叩く。振り向く彼に、


「その仕事、グッジョブだ」


 と告げ、ビッ、と親指を立ててみせる。中川路も同じように、親指を立ててみせた。

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