17-3

 みさきは台所に立ち、瞑目した。

 網屋には重ね重ね感謝せねばならない。かまどの守護神という称号を捧げたいくらいだ。有り難し、という言葉しか出てこない。


 初めて入る目澤宅の台所は、実に綺麗だった。綺麗というより、使った形跡がほとんど無いのだ。そして、物もほとんど無かった。

 網屋の言った通り、炊飯器も、大手の鍋も、みりんも、無い。あるのは小ぶりの鍋が一つ、袋に入ったままの菜箸、あとは電子レンジ。皿はちらほらと散見できるが、話を聞けばその正体は職場の結婚式でもらった引き出物であった。

 本当に、フライパンを買っておいて正解だった。下手をすればもう一度買い出しに行く羽目になるところだった。


「申し訳ない。その、あまり使わないもので」


 目澤の弁明を聞くまでもない。使用感があるのはダイニングテーブルと椅子だけだ。

 冷蔵庫の中もほぼ空。冷凍庫に氷が作ってあったのは、勿論晩酌のためである。が、その晩酌も頻繁に行うわけではない。飲むのはほとんど外だそうだ。


 まあ、掃除をする手間が省けただけ良しとするべきだ。みさきは鼻息も荒く、持参したエプロンを身に着けた。


「では、出来上がるまでしばらくお待ち下さい」


  どうしたって時間はかかる。最短で動きたいのはやまやまだが、それで失敗したら元も子もないではないか。

 が、目澤の返事は予想の斜め上を飛んでいった。


「あの、もし良ければ、なんだが。ここで待っていてもいいかい?」


 ここ、すなわちダイニングテーブルである。ということはつまり、料理している姿が丸見えである。


「いやあ、誰かに料理を作ってもらうなんて久しぶりでね。作っているところ、見ていたいんだ。……あ、変態親父的な発言だったか」

「いえ、そんなことないです! 全然ないです!」

「そうかい? まあ、仕事をやっつけながらだから、鬱陶しかったら引っ込むよ」

「大丈夫です。私の方こそ、お邪魔にならないでしょうか」


 遠慮合戦になっている。それに気付き、二人は同時に笑った。



 合わせ出汁を取って濃い目の麺つゆを作り、粗熱を取ってから冷蔵庫で冷やす。うどんを茹で、棚の奥から発掘した大皿に盛り付け、こちらも冷やす。

 麺を茹でている間に天ぷらの材料を切り、衣を作っておけば、揚げる準備は完了だ。衣は冷えているとなお良い。


 最初のうちは見られながら作ることに随分緊張していたが、すぐに慣れた。目澤は一挙一動を全て見ているわけではないし、みさき自身も料理に集中してしまったからだ。

 たまに振り向いて見ると、仕事の書類とノートパソコンを広げて難しい顔をしている。治療計画でも練っているのだろうか。両親もほぼ同じような調子であるので、特に気にはならなかった。


 目澤の仕事が一段落したのは、揚げ油が高温になる頃であった。調度よいタイミングだ。


「揚げたらすぐにお出ししますね。先に召し上がっていて下さい」


 冷蔵庫から麺とつゆを出そうとドアに手をかける。が、目澤はそれを止めた。


「いや、全部揚げ終わるまで待つよ。一緒に食べよう」


 みさきは一瞬戸惑い、逡巡してから「はい」と返した。嬉しかった。それはもう、叫び出したいほどに。

 内心でかなり浮かれながら、まずはささ身から揚げ始める。


 そんな背中を見つめて、目澤がぽつりと漏らした。


「こうやって、自宅で誰かに夕飯を作ってもらうなんて、何年ぶりだろう」


 本当に「漏れた」としか表現ができないような、こぼれ落ちた言葉。言った本人ですら驚いた様子だ。振り向いたみさきと目が合って、苦笑しながら言い訳を始める。

 みさきに対してなのか、それとも、己に対してなのか。


「誰かと一緒に食事をすることがあっても、ほとんどが仲間内の飲み会なんだ。二週に一度は実家に顔を出すが、いつも食べてくるわけでもないし。離婚する前だって、こんなのがあったかどうか怪しい」


 離婚、という単語に、思わず動きを止めてしまうみさき。

 離婚したということは即ち、かつて配偶者がいたということである。目澤くらいの年齢層ならば何らおかしいものではない。

 そう分かってはいるが、心の奥底に何かがちくりと刺さる。


「離婚、ですか」

「随分と昔の話でね、十年前かな。……申し訳ない、こんな話、聞いてもつまらないね」

「いえ、そんな事ないです。その、むしろ、気になって」


 揚げている最中の鶏天が立てる高い音。小さい泡が無数に内部から出てくる。

 気になった、というのは紛れも無い事実であった。嘘ではない。それをわざわざ口にしてしまったのは何故なのか、みさきもよく分からなかった。

 目澤が、ゆっくりと口を開く。


「……仕事仕事で、ほとんど構ってやれなくてね。研究の仕事が入って、何年かヨーロッパに缶詰になっていたんだが……帰ってきたら、テーブルの上に離婚届が置いてあったよ」


 目澤の物言いはどこか乾いていて、まるで他人事のようだ。


「そもそも、付き合いたいと言われて付き合って、結婚したいと言われて結婚して、最後は離婚したいと言われて、離婚。自分で物事を考えなかった結果だから、当然なんだよなあ」

「後悔は、ないんですか」

「ないな」


 即答。断言ではなく、苦渋でもなく、ただ振り向いただけのように。

 はは、と自嘲的な笑い声が続く。


「我ながら酷い男だな。結婚には向いてないんだろうと思うよ」

「そんなことないです!」


 突然の大声に驚いたのはみさき自身だ。目澤と目が合ってから、恥ずかしさがこみ上げてくる。慌てて、油の中へ視線を落とした。


「あの、その……人それぞれと言うか、合う合わないと言うか……だから、その、目澤先生が結婚に向いていないというのではなくて、その、状況と言うか、タイミングとか、組み合わせとか、そういうのが……ええと…………忘れて下さい」


 その女性との結婚生活が合わなかっただけなのではないか。本当はそう言いたかったが、前妻を悪し様に言うのは気が引けた。どんな形であれ目澤が一度は選んだ女性であるし、その女性も、どんな形であれ目澤のことを好いていたのだから。


「みさき君は優しいな」


 背中に彼の柔らかい声が届く。みさきは何も言えず、ただ首を横に振った。

 優しくなんかない、自分はもっと矮小で、みっともない人間だ。そんなに立派なもんじゃない。


 胸が苦しかった。目澤のことが好きすぎて、おかしくなりそうだった。どんなことでもしてしまいそうな自分がいる。己を偽ることすらしてしまいそうで、だがそれは己の望むものではなく、今の自分はまるで熱に浮かされたように不安定だ。

 前妻が羨ましい。目澤を一時期でも独り占めしたのだと思うと、ただ、ひたすらに羨望が募る。自分もその立場に立てたなら……


 これ以上考えると、何か妙なことを口走ってしまいそうだった。それを阻止するため、みさきは揚げ物に集中する。


 野菜は揚がるのが早い。くし切りにした玉ねぎのみが例外である。特に大葉などはあっという間に火が通ってしまうので気を付けなければならない。

 であるので、大葉を揚げるのは最後だ。揚げ物を終えると、冷蔵庫から冷やしておいた麺とつゆを出し、そば猪口に注いで氷を何個か浮かべ、食卓に出す。


 綺麗に盛りつけられた天ぷらに、目澤は「おお」と感嘆の声を上げた。


「すごい」


 目を輝かせる様はちょっとだけ子供っぽい。

 よし、とみさきは心の中でガッツポーズを決めた。


「お待たせしました。お召し上がり下さい」

「いただきます」


 まず真っ先に大葉を取ってくれたので、みさきはますます大きくガッツポーズを取る。心の中で、だが。

 ぱりっと揚げることができたし、やはり目澤には揚げたてを食べてもらいたかったからだ。


「うん、うまい」

「ありがとうございます!」

「いや、礼を言わなければならないのはこっちの方だよ。買い物とか大変だったでしょう」


 いいえ、と首を横に振った。うまいと言ってもらったのが嬉しくて、つい顔がにやけそうになるのを堪えるのに必死であったから、口を開くことができない。

 しかもこちらを見て微笑んでくれるのだから、もうみさきはどうして良いのか分からなくなった挙句、猛然とうどんを攻略するしかないのだった。

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