12-9

「さっちゃん、充さんがどうしたの、何があったの」

『充さんね、最後まで抵抗してたの。絶対に洗脳なんてされないって。そんな恐ろしい考えになんて染まらないって。どんな目に合っても、ずっと我慢し続けた。すごかったの』

「抵抗って……拷問だとか、そういうのにも?」

『うん。でもね、駄目だったの』

「駄目? 何が駄目だったの?」


 姉は受話器の向こうで泣き続けている。息を詰めて姉の言葉を待っていた鎮鬼は、背後の音から姉がどこにいるのか判断しようとしていた。

 微かに水の音。噴水か何かだろう。アスファルトの上を歩いている音も聞こえた。見当はつくが自信がない。


「ねえ、どこにいるの? 帰ってきてよ」

『駄目、だって』


 泣き続けたまま、小波は叫んだ。


『だって、充さんを殺したのは、私なの!』

「…………え?」


 解らない。把握できない。ずり下がった眼鏡を掛け直し、何か言葉を返そうとするが鎮鬼の口は開いたまま何もできない。受話器の向こうの姉は泣きながら語り続ける。


『殺さなきゃいけないって思ったの、そう信じてたの、あの時は! 相手が充さんだってことも分からなかった。ただ……あの時は、それが当たり前で……正しいことをしているんだって……思い出したの……今日、思い出したの! 私が、充さんを、刺し殺したの!』


 全身が凍りついた。ようやく理解できたのだ。

 洗脳された状態の小波が、充を自らの手で殺害したという事実。


 洗脳されている間の記憶を解体することを、鎮鬼は失念していた。すっかり忘れていた。塗りつぶされた彼女との思い出を回復することばかり考えて、こんな馬鹿なことがあったなんて、予想もできなかった。

 ただ回復に向かう姉の姿に安心し、自分の手で姉を洗脳から救い出した事に慢心し、教義を解体することに愉悦していたのだ。


「さっちゃん、今どこ? どこにいるんだよ!」

『もう分かんない……どうすればいいの? ねえ、充さん、死んじゃったの……どうしよう』


 泣き声が次第におさまってくる。心の奥底で「しまった」という己の声が聞こえてきた。

 悲しみに暮れ、嘆いている間はその行為のみに集中する。だが、その集中が途切れたら。他の行為に、意識が向いたら。


「どこにいるんだよ、さっちゃん!」


 泣くように叫んだ。返事は無い。鎮鬼は受話器を叩きつけて部屋を飛び出した。


 携帯電話を持って外出し、しかも自宅に電話を掛けてきたということは、充を殺してしまったいう罪悪感に駆られながらもまだ救いを求めているのだ。だが、その強烈な体験に伴う罪悪感は「鎮鬼に直接電話を掛ける」という、より確実な救いを拒む。


 まだ余地はある。再構築は可能だ。間に合う。間に合わなければならない。


 玄関を転ぶように出る。突っかけたスニーカーが変に引っかかって、うまく走ることができない。踵を靴に入れ直して、猛然と走り出した。


「……間に合え」


 呪文のように呟く。


「間に合え」


 祈りのように唱える。


「間に合ってくれよ!」


 届けとばかりに叫ぶ。日本語が夜空に響く。そしてひたすら走る。喉の奥が焼け付く。

 住宅地を抜け、アスファルトを蹴って、噴水の前を駆け抜ける。見当をつけた場所にはすぐに辿り着いたが、姉の姿は見当たらない。


「さっちゃん、どこにいるんだよ! 返事してくれよ!」


 見回して、もう一度走り出す。ただ闇雲に。姉はどこかにいるはずだ。それに間違いはない。

 必ず姉は、

 暗くなって視界の効かないアスファルトの上に何かが転がっている。

      ここの周辺に、

 近付いてみると、それが人間だということが分かった。

             いるはず、

 そしてそれは、首の曲がった姉の死体だった。

                  だった。


 間違いなく、小波だった。飛び降りたのであろう、脛骨が折れているのが外から見ても分かる。アスファルトに血が広がっていた。顔は少し横を向いていて、鎮鬼と目が合った。


「……さっちゃん」


 数歩近付いて、次の一歩をうまく踏み出せず、道路に座り込む。

 なぜこちらを向いているのか。それは、地面に接触するその瞬間まで、救いを求めていたからだ。鎮鬼がやってくるのではないかと、待っていたからだ。


 間に合わなかった。救うことはできなかった。姉は死んでいる。生き返らせることは、できない。


「さっちゃん」


 名が零れ落ちて転がる。ただ鎮鬼は見つめ、住民が通報して警察官が現場に駆けつけるまで、座り込んだまま何もしなかった。

 姉の血が付いたズボンのまま警察署に連行され、促されるままに事情を説明した。その間、涙を流すことはなかった。




 しばらくもしないうちに、教団の施設内で殺された死体が次々と発見された。

 その中に、充の遺体もあった。歯科治療カルテによる確認の他に、遺留品の確認も行われた。遺族である鎮鬼は、その確認作業を行った。遺体は腐乱状態がひどく、直接の死因は不明のままであった。


 鎮鬼は、一人きりになった。それでも彼は大学に通い、勉強を続けた。三人で暮らしていた家は広いので、売り払ってアパートに引っ越した。


 解体技術を学んだ。解体で人が殺せるほどに、鎮鬼は成長した。

 人前では笑ってみせた。傷が癒える頃には、もう誰もその話題を覚えてはいなかった。



 思い出。様々な感情を呼び起こす、思い出。

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