10-4
「待って」
振り向く。当然ではあるが、椿だ。彼女しかこの場にはいない。
「ああ、ごめんね、変な所見せちゃって。申し訳ないんだけど、この事は忘れて……」
「追いかけるんですか」
掴まれた腕が痛いほどだ。彼女の射るような視線に、少しだけ竦んだ。
「うん、まあ、そうなるね。お仕事なので」
「先日の、相田が付けた車の傷。それも、『これ』なんですか」
交差点などで垂直に当たってきたバナナ痕ではなく、ガードレールにこすった痕でもなく、不自然な高さと不自然な長さの傷。佐伯が眉根を寄せ、結局何も言及しなかった例の傷。思い当たる症例のどれにも当てはまらないのならば余程の特殊事態だということだ。
網屋はすぐに返答が出来ない。即ち肯定を意味する。だから、椿はそれ以上の追求をしなかった。無駄に言葉を繰る時間は無い。
「……普通の人じゃ、相田には追いつけませんよ」
「まあ、ね。分かっちゃいるけど、でも行かないとマズイし」
「私なら追いつける」
言葉の真意を理解できず、網屋は椿の顔を見返すしかできない。
「私しか、追いつけないと思う」
「え、いや、どうして」
「相田から聞いてませんか。私、ロードレースのライダーやってます」
ぎょっとする網屋。そんな網屋を放置して、椿は停めてあった自身のバイクへ歩み寄る。赤く塗装された、猛禽類のような印象のバイク。
座席の後ろに付いているバッグからヘルメットを取り出す。幼馴染のみさきを乗せる時に使っていたものだが、最近はとんと出番がなかった。問答無用でヘルメットを網屋に渡すと、空になったシートバッグを剥ぎ取ってしまう。
「左にインカム付いてます」
シートバッグも流れるように渡され、思わず自分の車の後部座席に放り込む。有無を言わせない迫力に、網屋は気圧されたままだ。
「タンデムの経験はありますか」
「一応、何回かは」
「結構。乗って」
端に引っ掛けてあった自分のヘルメットを被ると、 ひょいと跨る。
「早く!」
慌てて渡されたヘルメットを被り、タンデムシートに跨る。後から思い出してインカムのボタンを押した。
エンジンが唸る。宵闇の中、二人を乗せたバイクは空気の壁を切り裂いて走り始めた。
一方。
旧道を西へ走る二台の車。かなりの速度が出ている。後を追う車の中で、塩野は後部座席から顔だけ前に出して指示を飛ばしていた。
「追跡に徹して。あんまり煽ると、向こうが事故を起こしかねない。少しだけ、五キロくらい遅くする感じで」
「はい」
「相手を見失わなければそれでいいよ。贅沢を言うなら、相手が『振りきれる』って思ってくれるとなおいいね」
「なるほど。了解です」
相田に関してはすでに調べが付いている。さすが元レーサーだけあって、駆け引きの感覚に長けている。微妙なニュアンスを理解してくれるのはありがたい。
少し遅く、とはいえども、しっかり交通違反速度だ。相手はそれだけ飛ばしている。それだけの速度を出して走ることに躊躇いがない、もしくは慣れている。だが、元レーサーならそれなりに余裕を持って追うことが出来る。と、いうことは。
「素人じゃないよね、少なくとも。さらった手際、しっかり準備されてる車両、どう見てもその手のプロ」
「そこら辺の素人や一般市民が、中川路の情報を持っているはずもないしな」
少しだけ余裕の出てきた相田が、疑問を口にする。
「どうして、中川路先生だけがさらわれたんですか? いつもだったら、三人とも狙われるじゃないですか」
後部座席で二人は顔を見合わせ、ため息混じりに「まあね」と呟いた。
「川路ちゃんはね、特別なんだ。彼だけ、生きている状態で金銭的価値が発生するの。頭と血液ワンセットで」
「ごく一部の人間にとって、だけどな。望んでそうなった訳でも無い」
「……じゃあ、追っかけてる間に殺されちゃうってことは無いんですね? なら良かった」
良かった、とこの場には随分とそぐわない言葉。前向きな発言に、二人は思わず吹き出した。
「確かに! そう言われれば確かに安全だな!」
「安心して追っかけてられるね! あとは網屋君待ちかぁ」
振り向いて背後を見つめる。閑散とした道路が、凄まじい勢いで後ろへ後ろへと流れてゆく。
「とにかく、やれることをやりましょ。後は信じて、待つだけ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます