09-5

 その熊自身は、大きな体でキャベツを刻んでいた。隣の小さなフライヤーで何かが揚がっている。揚げ終えると適度な大きさに包丁で切り、刻んだキャベツと共に皿へ盛る。

 二人の前に供されたのは、トンカツ定食であった。


「味噌汁だけ用意できなくてね。オニオンコンソメスープだけど我慢しておくれ」


 見た感じはごく普通のトンカツ定食だ。白米、汁物、千切りキャベツが添えられたトンカツ、小鉢にマカロニサラダが入っている。香の物もある。

 が、その香の物がピクルスであることに網屋は気が付いた。そう言えばメニューをまともに見ていない。今更ながら、隅に置いてあったメニューを広げる。

 ない。トンカツ定食などというメニューは、どこにも載っていない。カツサンドなら発見したが、そもそも定食などというものはありはしない。


 白米は多分、ピラフ用のものだろう。トンカツは勿論カツサンド用。オニオンコンソメスープはメニューに載っていた。マカロニサラダはバゲットサンドのセットなどに添えられているものと推測できる。ピクルスも然り。


 咄嗟にここまで用意するとは。舌を巻く網屋をよそに、相田は隣で必死になって食べていた。


「よーく噛んで……食ってるな相田」

「ウィ」


 貴重な食料だ。食べれば無くなってしまう。飢饉の時に施された粥のように、相田はトンカツ定食を大事に大事に食べていた。

 網屋もいただきますと手を合わせた、その時だ。カウンター奥の階段から、何者かの声がする。


「あれ、親父、もう始めてんの?」


 若い女性の声であった。長い赤褐色の髪をポニーテールにまとめながら降りてきた人物は、カウンターに腰掛けている客を見るなり、「え」と呟いて動きを止めた。

 ふと顔を上げる相田。目が合う。そして、絶叫。


「なんで椿がここにいるんだよ?!」


 降りてきた女性とはモータースポーツ同好会の神流椿、その人である。


「なんでって自宅だここは!」

「マジかよ?」

「嘘ついてどうする! いらっしゃいませ!」


 手にしたかんざしで小器用に髪をまとめてしまうと、エプロンを身につけて手を洗う。そのままの体勢で、椿は振り向きもせず喋る。


「ところで、この店はいつから定食屋になったんですか、マスター?」

「ついさっき」


 マスターという呼称に過分の怒気をはらんでいる。ああ、わざとだ。わざとマスターって呼んでるんだ。カウンターの男二人はそれを察して体を小さくした。


「ついさっきー、じゃないでしょうが。メニューに無いもの出してどうすんの」

「いや、腹にたまるものっていう注文だったから、だったらコレかなと」

「主犯は相田か!」

「ヒイッ」


 怯えて体を竦めておきながら、それでも食べる手は止まらない。


「それにしても、椿んちが喫茶店だったとは知らなんだ」

「言ってなかったからね。聞かれてないし」

「確かに聞いてなかった」


 受け答えしつつ、椿はコーヒーの準備を始める。慣れた手つきで二杯淹れると、相田と網屋に差し出した。


「これは奢り。いいですね? マスター」

「おうよ」


 今度の「マスター」はわざとではない。二人はコーヒーをありがたく頂くことにする。


「んっと、じゃあ、こちらのマスターさんが椿の親父さんってこと?」

「そう。コレが親父。似てないと評判の父です」

神流真澄かんなますみです。よろしく」


 ますみ、ってツラじゃねぇよなぁ……と、相田も網屋も思ったが、口には出さない。


「似てないってことは無いと思うけど」


 マスターの言葉に、間髪入れずフォローを差し込む網屋。


「髪の色とか、そっくりですよね」


 日に透けると真っ赤に燃えるような色になる赤い髪。逆に言えば、そこしか共通項が無い。網屋の必死のフォローが届くか届かないかのうちに、相田も口を開いた。


「いや、めちゃくちゃ似てるじゃないですか」

「へ?!」

「こう、マスターさんを圧縮すると椿になるって感じですよね。生き写しレベル。遺伝子継いでる感マックス。十人中十五人はイエスって言うね!」

「……きみ、パスタも食べるかい?」

「頂きます」


 網屋はちらりと椿の顔を見て、とりあえず顔を伏せた。触らなければ祟りは無い、はずだ。サービスのコーヒーを啜って、予想以上に自分の好みであったことに喜びつつやはり顔は上げない。

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