06-7

 響介の葬儀から帰ってきて、学ランも脱がないまま、自室に布団を適当に敷いて転がる。天井の木目を見ていると人の顔が見える、なんて聞いたことがあるが、そんなものは全く見えてこない。


 せめて。せめて、響介が幽霊になって出てきて、恨み節くらい聞かせてくれれば良いのに。


 移動中の新幹線の中でずっと考えていたのは、次のレースのことだった。あと二週間で第十・十一戦がやってくる。頭を切り替えて、レースに集中しなければならない。

 だが、それができなかった。ただ、頭の中に渦巻くのは、この言葉。


 走れない。もう、サーキットでは走れない。


 電話が鳴る。いつものように祖父が取った気配がしたので、そのままぼんやりしていたのだが。


「雅之、電話だ」


 扉の向こうから呼ばれた。


「佐嶋って人からだ。中学校の時の知り合いだって言ってるぞ」


 その苗字に聞き覚えは無い。だが、クラスメイトの苗字だって全員覚えているわけではないのだ。

 鉛のように重い体を何とか起こして、祖父から受話器を受け取った。


「はい、もしもし。替わりました」

『……久しぶり。網屋です。覚えてるか?』


 もう一度転がろうとした上半身が、バネ仕掛けのように跳ね上がる。


「のんちゃん……?! え、本当に、先輩ですか?」

『おう。網屋さんですよ。紛れも無く』


 一昨年、姿を消した網屋。間違いなかった。確かに、網屋の声だった。


「生きて、生きてたんですね!」

『うん。辛うじて』

「今どこにいるんですか」

『東京。こっちで高校通ってる』


 いつも通りの声色に、今度はへなへなと力が抜ける。布団に倒れこんで、なんとも情けない声が出た。


『何だ今の、カエルが潰れたみたいな声は』

「カエルが潰れたんですよ。そんなことより、どうしてすぐに連絡してくれなかったんですか? 今何やってるんですか?」

『俺のことはどうでもいいんだよ。それより、お前だ』


 きっぱり断言されて、言葉を失う。


『俺、さっき帰ってきたとこでさ。新聞とネットの動画見て今知った。……残念だったな。等々力選手』

「ええ、まあ。俺も、葬式行って帰って来たばっかで」

『え、マジで。じゃあ、あとでかけ直そうか』

「大丈夫です。新幹線の中でがっつり寝たから」


 嘘をついた。一睡もできず、疲労ばかりが体に蓄積してゆく状態だったが、今この瞬間にそれを伝えたくはなかった。


『……そうか。なら、いいんだけどさ』


 網屋にばれたことを瞬時に悟る。それでも網屋は、その嘘を飲み込んでくれた。


『お前、本当に大丈夫か。これから、レースできるのか』

「うーん、どうだろ。つっても、まあ、やらなきゃならないんですけど」


 笑ってみる。うまくいかない。声が少し震えて、それが自分を責める。


「あっという間ですからね。頑張らなきゃ」

『うーん……お前さ、嘘つくの下手くそなんだから、無理すんな』


 真っ向から斬られた。よく考えればガキの頃からこうなのだから、網屋の前で誤魔化そうとした己の判断ミスだ。


「……きっびしいなぁ、相変わらず」

『おうよ。人に厳しく自分に甘い網屋さんだぞ。容赦無いぞ』


 軽口につられて笑う。ごく、薄くであったが。


『実際のところ、どうなんだよ。次のレース』

「出なきゃならない、ってのは解ってるんです。だって、俺一人のレースじゃないし。チームのみんなもスポンサーさんも合わせて、レースやってる訳だし。動くお金の量もハンパないし。解ってるんですけど」

『うん』

「……でも、何て言うか」

『うん』

「走れないんです。もう、あそこでは、走れないんです」


 走れない、と自分で発した言葉が、ブーメランのように帰ってくる。ぶつかって痛い。言葉が痛い。


「事故が怖いっていうんじゃないんです。それは、最初から覚悟してたことだから。だけど……ああ、何つったらいいんだろ」

『ゆっくりでいいぞ』

「はい。ええと……俺が、このまま、走ってていいのかって。あそこで走る理由、あるのかって。響介はもう居ないし、そしたら俺、誰を追っかけていけばいいのか分からなくなっちゃったんです。そりゃ、探せばいると思います。速い人なんていっぱい。そりゃ、もう。でも、俺、その相手見つけるまで、持つのかなって」

『……うん』

「じゃあ、もうどこで走ったって変わらない。そもそも、誰かと競う必要も無い。目標も、目的も、何にも無くなっちゃったんですよ」


 目から涙がぼろぼろとこぼれて、下へと流れてゆく。仰向けになっているものだから、少し耳の中に入って来て気持ち悪い。


「響介はもう居ないのに、俺が走ってどうすんのって。響介の分まで走るつもりになればいいんだって考えたけど、駄目なんですよ。どんなに走ったって、響介の分なんか出来るわけがない。追い付くのが精一杯だったのに。空っぽになっちゃった」


 涙を拭く余裕もなく、言葉ばかりがあふれ出て、天井の木目は人の顔には見えない。


「車は好きです。運転も好きです。ステアリング握るのも、そりゃもうこれ以上ないほど好きです。でも、無理なんです。サーキット走れない。ホント無理。もう、無理。でもそんなこと言ってられないっしょ? そりゃ確かに、チームには飯田さんも大竹さんもいるから、レーサーいなくなるわけじゃないし。でも、俺にも色んな人が関わってて、お金も掛かってて、時間を割いてくれる人達が居て、そしたら、今更走れないなんて言えないじゃないですか。こんなワケの分からない理由で、誰も納得しないような、個人的なぼんやりした理由で、走れないなんて。そんなの、絶対ダメじゃ、ないですか」


 うつ伏せになった。涙が耳に入ってきて、いよいよ耐えがたくなったからだ。そこら辺に投げ出した枕を引き寄せて、顔をうずめる。

 ヒイヒイ泣いている声を、網屋に聞かせたくはなかった。もう無駄な努力だとは思うが。


『相田』

「…………はい」

『いいよ。辞めちまえ』


 顔を上げる。受話器を耳に痛いほど押し付けて、網屋の言葉を拾い上げる。


『俺が許す。皆が許さなくても、俺だけは絶対に許してやる。だから、辞めちまえ』

「……え」

『お前、車、好きなんだろ』

「はい」

『車に関わるなら、絶対にレーサーじゃなきゃ駄目って訳じゃないんだろ』

「ええ、はい、まあ、そうです」

『じゃあ、それでいいじゃん。他の方法、考えよう』

「いいんですか」

『いいよ。俺が許すつったろ?俺がいいっつったらいいんだよ』


 ひどく強引な論理で片付けられてしまう。


『辞める事に対して何か言われたら、先輩から言われたんで~って返しとけ。逆らえないんで~仕方ないんで~』

「いや、仕方ないって先輩、そんな無茶な」

『そういう事にしとけ。な』


 網屋の強引さは柔らかい。


『まあアレだ、俺が一番心配してた状態じゃなくて良かった』

「……?」

『誰かの死に対して、悪役を作り出そうとしてなくて良かった』


 がらんどうの空間に突然放り込まれた石のように、乾いた侘しい響き。


『それやっちゃうと、辛いから』





 シグルドは最後の赤ワインを飲み干して、「ノゾミらしいや」と言った。

 ボトルの中には辛うじてグラス一杯分だけ残っている。せめてそれくらいは残しておかないと、というなけなしの配慮。


「チームのメンバーに辞めるって言った時、もっと怒られるかと思ってたんですけど、全く怒られなくてビックリしました」


 相田の目にもう涙は無い。


「お前の立場を解ってるのかーって、言われるんじゃないかと。むしろその後の方が大変だったかな」

「やっぱり、抗議の手紙とか来たりした?」

「来ました。電話やらメールやらも来たらしくて、チームに迷惑かけまくりです」


 と言いつつ、相田の顔はそれほど悲しげではない。


「でも、別にいいやって思えるようになったんです」

「ノゾミの太鼓判があるから?」

「そうそう。もう、全部先輩に押し付けておけばいいんだな、と」


 向けられた笑顔はちゃんと笑っていて、シグルドは安堵の息をついた。


 そうこうしているうちに、窓の外から砂利を踏むタイヤの音。部屋の主がご帰還である。


「お、帰ってきた。メシとツマミが帰ってきた」


 すこぶる酷い物言いを、車のドアを閉める音が遮る。

 相田とシグルドは立ち上がった。せめて、玄関くらいは開けてやらねば可哀想というものだろう。


 涙を吸い込んだパーカーの袖は、もう乾いている。

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