06-6
「遅い!」
第一声がそれだった。命からがらと言った体でようやく玄関まで辿り着いた希は、咎める視線をぶつけてくる。
「確かに遅かったけどさ、第一声がそれかよ。お前だってコレやったことあるんだろ? だったらもうちょっと……」
「違う、そういう意味じゃない! ああ、もういい、とりあえず風呂入って来い。全速力でだ!」
憮然たる面持ちで、それでも希は指示通り風呂場へ直行した。
正直、タイムとしては上出来の部類に入る。徒歩で指定された山まで行き、登頂して徒歩で帰ってくる。所持して良い食料は無し。金銭も所持不可。重い荷物を抱えての行軍は体力よりも先に精神を削る。
佐嶋が提示した目標期間は一週間であったが、実際は二週間で戻ってくれば良いだろうという予想であった。それをはるかに上回る、十日間での帰還。褒められてもいいところだ。
それでも、シグルドは苛立ちをぶつけてしまった。例の事故から数日、その間の焦燥感は凄まじいものがあったからだ。
希が佐嶋の元に弟子入りしてから一年以上。最初のうちは表情が固かった彼も、今ではすっかり減らず口を叩く生意気な野郎である。
お前がいなければ、自分が「狼の最後の弟子」であったのに。そんな愚痴を言ったこともある。勿論冗談だ。
そんな冗談を叩いても大丈夫な程、希は元来の明るさを取り戻していた。
その希が事あるごとに自慢してくるのが、相田の存在である。シグルドがカートレース雑誌を毎月購入しているのを目敏く発見した希は、それはもう喜色満面で「こいつ、俺の後輩なんだ」と記事を指さしつつ自慢してきたものだ。もちろん、最初は簡単に信じられなかった。
だが、調べてみると確かに実家が近い。さらに、雑誌やネットでは出てこないような情報まで知っている。
何より、相田の事を語る時の希は、嘘を付いているような顔付きではなかった。
「すげえんだよコイツ。ガキの頃からずっとカートやっててさ、速いんだ、馬鹿みたいに。俺さ、コイツに憧れて陸上部入ったんだよね。速いのかっこいいなーって思って」
それは家族のことを語る顔だった。
放っておけばいつまでも相田の自慢話が続くので、相田派であるシグルドとしては嬉しいのだが、いかんせん長い。佐嶋が「そこまで」と打ち切ってしまうのが常であった。
日頃から話を聞いていれば分かる。希がどれだけ、相田の事を心配しているか。
だから、居ても立ってもいられなかった。何故もっと早く帰ってこなかった。
風呂場から頭にタオルを被って出てきた希に、シグルドはスポーツ新聞を叩きつける。
「一番下、真ん中の記事」
眉根を寄せつつ新聞記事に目を落とす希を確認して、シグルドはノートパソコンを引っ張り出す。目当ての動画はすぐに見つかった。
希の方はと言えば、記事の見出しを見た時点で顔が青くなっている。
「おい、マジかよ。等々力選手が」
画面を希の方に向け、再生ボタンを押す。あまり何度も見たくはない映像であったので、シグルドは目を逸らす。
それでも、爆発音で思わず映像を見てしまった。ギリギリの位置で等々力選手を抱えている相田選手。救護班に引きずられ、画面外へ移動してゆく。外へ消えるイエローとエメラルドグリーンのレーシングスーツ。炎上する車体。喚く実況。
網屋の顔がみるみるうちに青くなる。ヘルメットを取っていないが、等々力選手を引きずり出したのが相田だと嫌でも分かるからだ。
「……なあ、シグルド、これ」
「日曜日のレースだ。第九戦目」
電話の子機を掴む。希に差し出した。
「連絡してやれ。大事な、後輩なんだろ。ヴォルフには俺から説明しておく」
すがるような、それとも違う何とも言えない顔を一瞬見せて、希は子機を奪うように受け取る。ボタンを睨んでしばらく悩むと、慎重に一つ一つ押した。
「……もしもし、相田さんのお宅ですか……はい、すみません。間違えました」
通話を終えると、次は素早く番号を押す。最後の一つだけ、一瞬悩んでからのプッシュ。
「……もしもし……すみません、間違えました。申し訳ありません……」
通話しながら二階の自室へと階段を上がってゆく。シグルドは黙ってその背中を見送った。連絡を取ってどうなるかなんて分からない。だが、今は、これが精一杯だったのだ。
「ノゾミの力を当てにしたのは、あれが最初だったな」
相田のグラスにワインをまた注いで、シグルドはポツリと呟く。
「どうだったんだろうね。あの判断が正しかったのか、間違っていたのか。良く分からないが、あの時はそれが最良だと思っていたんだ」
色男の、色男らしからぬ表情。ためらいや、若さへの後悔や、そんなものがごちゃまぜになって、名付けられぬ感情が顔というフィルターを通してじんわりとにじみ出る。
「いやあ、そりゃもうナイス判断ですよ。これ以上無いくらい」
少し酔いが回ってきたのが分かる。とりあえず酒は控えようと思うが、相田はこのまま酔いに任せることにする。
「あん時に電話もらってなかったら、俺、引退してなかったし。で、引退してなかったらレーサー続けてたんだろうけど、ロクな成績出せてなかったと思います。首くくって死んでたかもしれない」
誇張ではない。それ以外に、末路が思い浮かばない。
「……電話で、何を話してたの?」
「レーサー辞めたいって。でも、辞めていいのか分からないっつったら、先輩、言い切ってくれたんですよ。俺が許すから、辞めちまえって」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます