06-2
そんな会話を繰り広げているとは露知らず、着替え終わった網屋は「行ってくる」と一言残してさっさと部屋を出て行ってしまった。
後に残された相田とシグルドは、ためらいもせずに食事を続ける。網屋の扱いが悪いのか、食事のことしか考えていないのか。
が、さすがにいつまでも回鍋肉を頬張ったままではよろしくない。相田はよく噛んだ後に卵スープで胃に流し込み、茶碗と箸をテーブルに置く。手から離してしまわないと食べ続けるからだ。
「すみません、俺、名乗ってなかったですね。相田……」
「相田雅之さん、だよね。実は知ってました」
その手の職業だから自分のことも調べたのかな、と思ったのだが。
「知ってたと言うより、俺、相田選手のファンだったんだ」
心臓を鷲掴みにされたような、冷水を掛けられたような、頭を固いもので殴られたような、そんな感覚。
何年ぶりであろうか、「選手」と呼ばれるのは。
余程酷い顔つきになったのだろう。シグルドの顔からも笑みが消えて、それでようやく相田は落ち着きを取り戻す。
「すまない、デリケートな話題だった」
「……いえ、大丈夫です、問題無いです。昔の話ですし」
精一杯笑う。シグルドに向けてなのか、己に向けてなのか。
「あと、ありがとうございます。応援してもらうとやっぱ嬉しいっすね」
シグルドの表情が少し緩んで、相田は胸をなで下ろした。自分が立て直しに成功したことを悟ったからだ。
「それなのに、突然引退してしまって申し訳ありません。色んな人に支えてもらってたのに」
「いや……あれは仕方ないだろう」
そう言ってもらったことに感謝する。実際はかなりの人数に責められた。誹謗中傷も受けた。それでも今立っていられるのは、網屋が背中を押してくれたからだった。
「引退しようか、最初は、迷ったんです。悩んでる時に、先輩から電話をもらって」
「うん。あいつ、血相変えて電話番号思い出そうとしてたからよく覚えてる」
多分、網屋の前では見せないのであろう柔らかい表情。ああ、この人は本当に網屋の兄貴分なのだと相田は知る。
「はっきり思い出せなくて、何回か間違い電話掛けてたみたいでね。下一桁総当りしてたんだろうな」
「マジっすか。じゃあ、下手すると間違い電話が九軒ですよ」
「ああ、そうかもしれない。随分時間かかってたから」
受話器の向こう側に謝り続ける、高校生の頃の網屋を想像する。遥か遠い昔のような、それほど遠くもないような。
シグルドは突然立ち上がり、土産と称して持ってきた赤ワインを手に取った。
「先に飲んじゃおうか」
勝手に食器棚からワイングラスを二つ出す。コルク抜きもキッチンの引き出しを漁るとすぐに発見できた。
慣れた手つきでコルクを抜く仕草を薄ぼんやりと眺めて、気が付けば相田の前に差し出される一杯のワイン。
「はい乾杯」
グラスを持つ間も与えず、シグルドは一方的に宣言して一杯目を空けてしまった。すかさず手酌で注ごうとするところを阻止し、相田が注ぐ。
ブドウの匂いがする。きっと美味しいのだろうなと口をつけると、やはり飲みやすい。なるほど、これならグラス一杯すぐに空けることができるだろう。
おかずの回鍋肉はツマミと化す。赤ワイン一本を全て消費しないようにしなければ、と、相田は己を戒めた。
「あの、お聞きしてもいいですか」
「ん?」
「どうして、俺のファンになってくれたんですか」
「……ああ、等々力派か相田派か、ってこと?」
「ええ、まあ」
照れくさいが、気になったら即聞いてしまうのが相田の癖だ。
「純粋に、あの攻めてくスタイルが好きなんだ。そういうのを求めてレースを観てたからね。ジュニアの東西統一戦を見た時は鳥肌が立った」
「うわ、懐かしいな。てことは、あれ、結構前ですよね?」
「ノゾミに会う前から、だね。だから驚いたよ、世の中狭いんだなって」
シグルドと話をしながら、相田は自分の中に芽生えつつある一つの感情に気が付いた。過去の話をしていても不快ではない。普段なら条件反射的に怖れ、無意識的に避けていたはずなのに。
もう分かってはいるのだ。その感情の正体。
「エルヴァルソンさんは、その……」
「シグルドでいいよ」
「じゃあ、シグルドさんは……俺の引退、正直、どう思いましたか」
欲しいのは慰めの言葉ではない。それを求めて聞いたのではない。もちろん、誹りを受けることに対しての恐怖はある。たった一人に聞いてどうすると、それが何になると言われてしまえばおしまいだ。だが、それでも聞きたかった。甘えであったとしても。その甘えも含めて、切り捨てられたとしても。
「ファンとしては、残念だった。もっと活躍を見たいと思った。だけど、もし自分がその立場であったらやはり引退すると思う。あれで引退を責める人間がいたら、それはおかしいよ」
シグルドの顔を見て、揺れるワインの水面を見て、もう、その機会は今しかないと確信する。
相田は胸の奥につかえている重い塊を、外に出した。
「……初対面で、本当に申し訳ないんですが……昔話、聞いてもらっていいですか」
ぶちまけたかったのだ。何もかも洗いざらい、今までのレース人生というやつを全て。吐き出さなければ、内側から膨れて破裂してしまうのではないかという危機感。
網屋ではない。同好会のメンバーでもない。他の、誰かに。
このしみったれた、小さい人間の藻掻きを。
「俺で良ければ、是非」
その答えを心のどこかで予測し、期待していた自分の小狡さをワインで塗り潰して、相田は堰を切ったように話し始めた。
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