02-3
この後はあまり良く覚えていない。
半狂乱になって警察に通報したのは記憶にある。食事や風呂や、着替えた覚えがまるで無い。あの血が沁み込んだウインドブレーカーはどこへやってしまったのか。
話を聞いてくれた警察官が優しかったという曖昧な記憶は、果たして事件からどれくらい後の日付だろうか。自宅以外のどこかで、話をしたような気がする。
寝泊りしていたのは自宅ではないはずだが、そこへどうやって移動したのか、どのように生活していたのか、まるで記憶に無い。学校に行っていなかったのは分かる。学校の記憶が無いからだ。
葬式は近所の人達が取り仕切ってくれた覚えがある。隣組と言うやつがまだ生きていたのだろう。
棺が四つあった。
四つの棺が火葬場へ運ばれて、轟々と唸る炎で焼かれ、驚くほど小さくなって出てきた。
白い塊。もっと細かく砕けるのかと思っていた骨は、予想以上に原形を留めていた。骨壷に入らないので砕くことになり、箸の先で押し割った。
簡単に割れる、四人の骨。
この後はもっと記憶が曖昧になる。何をどうやって過ごしていたのか、全く覚えていない。
次に明確な記憶として浮上するのは、四十九日だ。親類縁者はいないので、隣組と、警察関係者が何人か参加する程度であった。法要と言うより納骨のための行事であったと思う。
あんなに軽かった骨が、妙に重い骨壷に入れられて、墓の下に収められてゆく。小さな片田舎の、小さな墓地。その中の、小さな墓。
線香の煙。肩に手を置いてくれたのは誰だったか。
小雨が降っているにもかかわらず、変に白っぽく明るい日だった。傘を差すべきか否か、判断が付かずにぼんやりしていた。学ランの肩がわずかに湿った。
食事は取ったと思う。膨満感に苛まれながら帰路に着いた覚えがある。
何故自宅に帰ったのか、よく分からない。塗位牌を四つ抱えて、気が付けば「いつものように」玄関を開け、電灯のスイッチを入れようとしていた。
ぱちりと音はするが、明るくならない。電気が止まった状態なのだと気付いた。仕方ないのでそのまま居間へと向かった。
カーテンは掛かっていなかった。外の、薄ぼんやりと白い光。じんわりと暗く、暗くなってゆく。
テーブルの上に位牌を置いた。よく分からない、名前のようなものが書いてある黒い置物。
いつもの椅子に座って、テーブルの上の位牌をひたすら見つめる。これが家族なのか。この、物言わぬ物体が、つい最近までごくありふれた生活を送っていたはずの家族だと言うのか。
よく、分からなかった。
違和感に気付く。居間の中にあったいくつかの物が姿を消しているのだ。カーテン、ホットカーペット、ソファー。
それらは全て、どうしようもなく血に塗れた家具。
そうだ、ソファーが無いから広く見えるんだ。
これが、引き金だった。
ソファーに倒れ伏した父。あの時目が合った。父は何と言っていたか。「逃げろ」と、そう、言っていた。
「ああ」
流れ出る血に手も、服も、何もかも染まって、重く、指に触れる傷口の生々しい感触。真っ青になった震える唇で、「逃げろ」と、名を呼んで、「逃げろ」と。
「ああああ」
目から光が失われて、動かなくなる直前に、父が伝えようとしていた、言葉。自分が死ぬ間際だというのに、それなのに、父は希に「逃げろ」と言ったのだ。
「うわああああああ!」
テーブルの位牌を奪うようにかき集めると、慌てて自分のコートでくるむ。自身は防寒着を着ないまま、靴を乱暴に履いた。
玄関のドアを叩きつける様に開ける。そのまま、小雨の降る肌寒い屋外へと飛び出した。
逃げなければ。逃げなければ。ここから、遠くへ。出来るだけ遠くへ。
全力で見知っている道を駆け抜ける。粒の小さい雨が全身を満遍なく叩く。その雨粒一つ一つが希の進路を阻んだ。息が詰まる。雨の膜が鼻と口を塞ぐ。
だが走った。水溜りに勢いよく足を突っ込んで泥水がはねた。学生服の裾が酷く汚れた。
涙が、どうしようもなく溢れて止まらない。今まで、今日この日まで全く泣いていなかったことに走りながら気が付いた。その分を取り戻すかのように、壊れた蛇口の如く涙が流れる。
口から出ているのは怒号か、悲鳴か。肺の中に満たされる恐怖を、声にして吐き出さないと破裂してしまいそうだった。
喉の奥が痛くなる。血のような味が口いっぱいに広がる。痛い。喉も鼻も引き攣れるように痛い。
それでも走る行為を止められない。
逃げなければ。逃げなければ。今すぐに、ここから。父がそう言ったのだ。逃げろと、そう言ったのだ。その言葉を守らなければならない。
走った。どこまでも走り続けた。夜になり、辺りが暗闇に覆われても走った。道も分からなくなり、まるで見覚えの無い場所に出ても走った。
夜が明け、また暮れ、足の痛みが限界に達しても走り続けた。空腹と眩暈とが交互に襲い掛かってきても走り続けた。
靴擦れした踵。割れた足の爪。軋む膝。朦朧とする頭。
時折、動きが止まる。不足する酸素を、立ち止まりひゅうひゅうと音を立てて吸い込む。しかし、すぐに恐怖感が押し寄せてくるのだ。逃げなければならない、足を止めている暇は無い、と。
今思えば、この時の自分は明らかに狂っていた。狂わざるを得なかったのだろうか。
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