02 過去と記憶
02-1
物凄い速さで、玄関のチャイムが連打されている。
一秒間何連打だっけ? と父か母が口にしていた言葉を思い出そうとして、相田は布団から顔を出した。
日曜。朝。バイトでもない限り、大抵の学生は寝こけているだろうこの朝に、凄まじい勢いの連打チャイム。
寝ぼけた頭でそれを聞いているうちに、意識がゆっくりと覚醒し始める。
昨日は先輩の引越し作業を手伝って、車で走って、メシを食った。で、寝た。
ならどうして、朝っぱらからこんなにチャイム連打をされているのか。何か。セールスか。それとも宗教勧誘か。面倒くさい、もうちょっと眠らせて欲しい。
俺は食べ物の神しか信じません。祈るだけで幸せになれるのならメシをたらふく食わせて下さい。眠い。できれば美味しいご飯がいいです。何もしなくても、勝手に食事が出てくればいいのになあ。上げ膳据え膳。眠い……
と、ここで眠気が吹っ飛んだ。昨日、先輩が何と言っていたか思い出したのだ。
「すんません! 今! 開けます!」
ベッドから転がり落ち、さらに内階段を転げ落ちるように降り、そのままの勢いで走ってドアに激突する。もつれる手で鍵を開けると、ドアは勝手に開いた。
「オハヨーゴザイマス」
文鳥かオウムの真似だろう。棒読みの裏声で挨拶する網屋がそこにいた。
「オハヨー! オハヨー! アサダヨ!」
手にはタッパーとスーパーの袋。格好もあからさまに寝巻き用と思われるTシャツに短パン。相田も同じような格好なので、その点に関しては何も言えない。
「オキタ! オキタ! オハヨー! オハヨー!」
そのまま上がりこむ網屋。脱いだつっかけサンダルを足先で起用にそろえると、真っ直ぐキッチンへ向かう。
「うーわ、使ってねぇなぁ」
ここでようやく、文鳥だかオウムだかの物真似が終わる。一人暮らし用の部屋にしては立派な、ビルトインタイプのコンロが付いているキッチンなのだが、袋ラーメンを作るか、炊飯器で米を炊く程度しか使わない。
「米は炊いてますよ、米は」
「お、米はいいぞお。コストかからん良い食い物だ」
コンロの上に置いたままの雪平鍋を手に取ると、「うーん」と唸ってから振り向く網屋。
「おい、鍋ってこれだけか」
「そうっすね。それしか無いです」
「取ってくる」
だが、再びドアを開けようとして手を止める。
「おい、一応聞いておくが、みりんはあるよな?」
「無いです」
「よし、お前がこっちの部屋に来い」
相田に選択権は無かった。不要であったとも言える。
荷物を持たされ、隣の部屋へ移動する。間取りが全く同じなだけに、不思議な違和感があった。まだ少し荷物が残っているが、昨日の夜に片付けを進めたのか随分とすっきりしている。
網屋といえば、既に台所で蕎麦の支度を始めていた。醤油もみりんも、取り出すボトルが全て大きいお徳用。まず、出来合いのつゆではなく自前で作ろうとしているのが相田からすれば驚愕だ。
そして、タッパーの中にニシンの甘露煮。
「それ、作ったんスか」
「うん。自分で煮た方が好きな味付けに出来るしなぁ。市販のやつは小さくて寂しい」
小ささへの不満は激しく同意する。たまに食べたくなる味の濃い煮物は、これで足りる訳が無いだろうというほど小さい上に一切れ二切れしか入っていない。しかも値段が高い。
「お前も自炊すれば? 安く済むぞ」
「無理です」
「バッキャロウ! 最初っから無理とか言うな! オカアサンそんな子に育てた覚えは無いワヨ!」
「まず先輩に育てられた覚えがねえ!」
「デスヨネー」
昔からのテンプレート的な受け答え。こうやって普通に喋っている分には、何も変わっていないように見受けられる。
だが、昨日のことをぼんやりと思い出す。夢ではない。網屋の手に握られていた銃。耳に突き刺さるような発砲音。車に付いた傷。
「せんぱーい」
「おう、なんじゃい」
「昨日の件に関連する説明を要求します」
「唐突だなオイ」
疑問に思ったら素直に聞く。相田の長所であり悪癖である。ある程度の空気は読むが、あえてそれを無視して突っかかる時が必要だと、相田は経験則から知っていた。
「つってもなー、顧客の情報はプライバシーの侵害ですからー」
「じゃ、先輩の話。俺の知らないところを説明して下さい」
「ぅおーい容赦無ぇーッ」
薬味の葱を刻む網屋は、背中を向けている。表情は分からない。
「俺の話っつーてもさ、どこから話せばいいんだよぉ」
「全部っすよ全部」
「えぇー……」
葱の青味まで全部刻んで、ここでようやく包丁が止まった。
「全部、ねえ」
沸き立つ鍋に蕎麦を入れ、菜箸でかき混ぜながら、網屋はぽつりぽつりと言葉を発する。
「相田はさ、どの辺まで知ってんの」
「世間一般程度、です。それ以上は、何も」
「まあ、そうだわなあ」
しばらくの間。ぐらぐらと煮立つ鍋。思ったよりはるかに早く蕎麦は茹で上がる。
手際良く丼に盛り付けて、暖かいニシン蕎麦が目の前に供される。薬味の葱が山盛りになって、肝心のニシンの甘露煮が見えない。
無言で食べるよう促され、「いただきます」と律儀に手を合わせる。
蕎麦を食べる相田の手元を見つめて、網屋の口からこぼれるように、ひとつ、ひとつ、言葉が発せられる。濁った沼に、恐る恐る足を踏み入れるように。
「どこから、話したもんかな」
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