01-3

「いいか、これから起こることは忘れろ。いいな」

「忘れるんスか」

「そうだ。あと、口外もしないこと。今日の件について何か聞かれたら、全部俺に脅されたってことにしろ」

「え?」


 切羽詰っているのは見当が付くが、網屋の言葉は余りに唐突だ。思わず網屋の顔を見る。やはり、冗談を言っているような顔付きではなかった。

 そんな顔のまま、網屋は電話を掛ける。コール音は一度に満たなかったであろう。すぐさま会話が始まった。


「お待たせしました、網屋です。今、そちらに向かってます。……バイパスですか……寄居町方面。はい……運動公園前の交差点を右折」


 頭の中で地図を描く。言葉の断片だけでも十分に把握は出来た。電話の相手も、走る車の中にいるのだ。しかもどうやら、猛スピードで。


「相手は何台ですか? ……一台? ……ああ、大丈夫です。対処できます。はい。はい。ちょっと待って下さい」


 ここでマイク部分を軽く塞ぎ、


「相田、ここからバイパスまでどれくらいで着く?」


 と網屋は問う。


「最短で、だ」

「最短ですか」


 少し返答に躊躇ってから、


「三分です」


 と返す。網屋はその時間をそのまま伝え、通話は切れた。グローブボックスから黄色いサングラスを取り出して掛けると、彼の表情はますます硬くなった。


「よく聞け相田。俺がいいと言うまで、走行の手段を問うな。限界まで飛ばせ」


 そう言いながら、網屋は羽織っているジャケットの左脇から何かを取り出す。その動きがあまりにも「ごく普通」のようであったので、相田は目の端に入ってきた物体を一瞬認識できなかった。それをいじった時に出た音が普段耳にするものではなかったが故に、ようやく相田は違和感に気付く。

 暗がりの中に僅か見える、金属製と思わしき物体。


「それ、それ……何ですか」

「銃」


 黒いそれをスライドさせ、戻し、またジャケットの内側にしまう。何事も無いように。


「いや、そうじゃなくて、そういう意味じゃなくて」

「じゃあ、鉄砲。てっぽー」


 相田の頭の中で、まとまりの無い思考が次から次へと駆け抜けてゆく。

 銃刀法がどうのこうのと教科書で読んだのはいつだったっけとか、免状とか必要だと聞いたことがあるとか、持つことは出来るのだけれど、銃を持ってる人なんて結局、見たことは無い、とか。

 ニュースでごく稀に見る「銃による犯罪」がどうのこうのだとかを、いつだって遠い世界のことだと聞き流していた。それが当たり前だし、相田以外の人間だって大抵はそうだろう。

 昨年亡くなった祖父は「昔に比べて銃刀法も厳しくなった」などと言っていたが、海外のように日常的に銃犯罪が起こるわけでもない現代社会において、どこがどう厳しかったのか、厳しくないのか、相田には分からない。銃に触れる機会は今まで無かったし、そのような環境でもない。

 問い質そうと思ったが、思考は運転へと引きずられて形を崩してゆく。


 そうこうしているうちに、車はバイパスへと躍り出た。舗装されていない畦道も選んだおかげで、赤信号に引っかかることなく交差点を抜けることに成功する。

 その交差点の路面に、タイヤの痕。


「派手にやってんな」


 付いたばかりであろうその痕に、誰にともなく呟く。網屋は目を細めた。


「大事になる前に追いつかないとまずそうだ。この前方に、全力でカーチェイスかましてる車が二台ある。そいつらの間に割り込んでくれ」

「無茶苦茶言いますね先輩!」


 片側二車線の道路は車もまばらで、そこだけが取り残されたようだ。市街地とは逆の方向である上に、周辺は空き地と畑と雑木林が広がるばかりの寂しい場所である。

 その薄暗闇の中を、黒い車は静かな唸りを上げて駆け抜ける。


 似ているな、と、相田の意識を何かが掠めてゆく。それが、日頃思い出すまいとしている昔の感覚だと己の声が告げる。聞きたくは無い、分かりたくは無い。かつての声に耳を塞ぎ、昔の景色に目を閉じ、今はただこの瞬間だけを考えることに努める。振動を通じて伝わる路面の感触と、メーター類が示す数値と、アクセルの抵抗感。

 その行為こそが、思い出に直結している事実に気付きながらも。


 程なく前方から車の音が聞こえてきた。限界まで回るエンジンと悲鳴を上げるタイヤ、二台分の音が左右に振れながら走っている。


「見えた!」


 言うと同時に網屋はサンルーフを開けた。椅子の上に立ち身を乗り出す。風をまともに浴びると、この車が今どれだけの速度を出しているのか良く分かる。

 網屋が見つめるのは黒い高級外車と、それの少し前に見え隠れする赤い車体。間違い無く、探している相手であった。

 追いかけている方が追突しようとする度に、追われている方がかろうじて避けている。アスファルトとタイヤが擦れて嫌な音を立てる。


 相田達の車はさらに加速し接近する。

 この状況の中で速度を上げる怪しい車に、追跡車もさすがに気が付いたのだろう。意識の方向がこちら側に逸れ、わずかに速度が緩んだ。

 ここぞとばかりに間合いを詰め真横に付ける。すると、追跡側はためらいもせず車体をぶつけてきた。鈍い衝撃。金属同士が擦れる不快音。ふらつく車体。だが、ハンドルを切ってすぐさま立て直す。

 ちらりと隣を見る。網屋は既に体を後方へと向けていた。ガラス越しに相手の運転手と目が合ったような気がしたが、もうそんなことはどうでもいい。

 もう一度車体を激突させようと、相手の運転手がハンドルを切ろうとする、その手元。それだけを目の端で捉えて、相田はふわりと衝突を避けた。今度は相手の車がよろめき、動きが鈍る。


 その瞬間を待っていたのだ。加速し、車体の鼻面を相手の前方へと捻じ込む。

 滑り込むかのように、相田は二台の隙間へ割り込むことに成功した。


「先輩!」


 我知らず、相田が叫ぶ。網屋の銃口は真っ直ぐに相手のフロントガラスへ向いていた。鋭い発砲音が二回、間髪入れず、再び二回。


 追跡車は制御を失う。そのスピードのまま何度か蛇行し、歩道へと突っ込んだ。さらに横の畑へと落ちてゆく。

 ボンネットがぐしゃりと潰れる音は、あっという間に遠ざかっていった。


 銃撃自体はあまりにあっけなく、相田がそれと認識できないうちに終わってしまった。運転に集中していたのもあるだろうが、網屋の速さが現実味を与えなかったのも事実だ。

 網屋は椅子に戻りサンルーフを閉じる。何事もなかったような顔をしていて、ますます現実味は薄れた。だが、わずかに感じる嗅ぎ慣れない臭いがある。煙草のような、煙い臭いだった。



 速度を落とすと、すぐ赤信号に捕まった。ブレーキを踏みながら、今になってようやく「赤信号」を認識できたことに気付く。そこまで集中しきっていたということだ。相田は深く息を吐き出して、背もたれに体を預けた。


 網屋は電話を取り出して、再び通話を始めていた。


「お疲れ様です、終わりました。はい……はい、ちょっとお待ち下さい」


 そしてまた通話口を塞ぎ、相田に問う。


「お前、この後時間あいてる?」

「え、あ、大丈夫です。あいてます」


 馬鹿正直に答えた後、一体何があるのかと不安に駆られたが。


「メシおごってくれるってよ」


 拍子抜けする内容に、相田は心の底から安堵した。今更になって緊張が背中を這うようにこみ上げる。掌と背中にじっとりと汗をかいていた。

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