第123話 傷口をなぞる指

「ひどい。これは一生消えないわよ」

「……恐ろしい。昔から空恐ろしい所のある男だったが、こんな酔狂をするとは……」


 しかしヨハネは、平然と言った。

「そんなに気にする必要もない。毎日の仕事で、打ち身や切り傷はたくさんできた。消えないアザもたくさんある」

 そう言うとヨハネは立ち上がって扉から出て行こうとした。しかし力なくその場に転んで倒れた。

「どこに行くつもりなのよ」

「マリアを助けに行く。東の方角にある『東ミゲル会社』にいるそうだ。早くしないと、マリアがどうなるか分からない」

「なに言ってるのよ。あなたさっきまで二日も眠り続けていたのよ」

「若い人よ。しばらくこの館で休んでいきなさい。旅には準備も必要でしょう。そもそもあなたは東ミゲル会社にどうやったら行けるのかご存じなのですか」

「あれこれ考えている暇は私にはないのです。すぐに発ちます」

 ヨハネはまた立ち上がろうとして、また転んだ。彼は足に力が入らないほど衰弱していた。

「若い人よ。まず体を洗い、もっと食事を採ってお眠りなさい。傷を手当てなさい。それからでもよいでしょう。メグ。お願いしますよ」

「さあ、こっちへ来なさいよ」

 メグはそう言うと、ヨハネの腕を引っ張って立たせると、彼を部屋から連れ出した。


 メグは勝手口の外にある井戸端いどばたまでヨハネを連れて来ると、大きなタライに湯を張った。そして布切れをヨハネに渡した。

「これで体を洗ってね。私は物影ものかげにいるから」

 そう言うと、勝手口の中に姿を消した。


 ヨハネは服を脱いで全裸になると、布を湯に浸して全身を確かめるように洗った。両ひじ、両ひざの傷には肉が盛り上がり、少しずつ傷口を埋めつつあった。他にも細かいアザと切り傷が体中に無数にあった。それらにもが覆いつつあった。彼はタライの湯に腰まで浸かった。彼の体に付いた汚れが溶けだし、湯を薄茶色うすちゃいろに染めた。お湯の暖かさが体に染み込み、声を上げたくなるほど心地よかった。新たな活力が彼の体に満ち始めた。


 ヨハネが体の水気を布で拭い、ズボンを履くと、メグがいきなりその場に入って来た。

「おい、まだ裸だよ」

「いいのよ。薬と新しい服を持って来たの。イゴールがくれたの。こっちに背中向けて座りなさいよ」

 しぶしぶ、ヨハネはメグに背中を向けて、近くの石に腰を下ろした。メグはその後ろに膝を突くと、ヨハネの背中と肘の傷に軟膏を塗り始めた。


「傷だらけね」

「そうかな」

「そうよ。特に肘の傷と背中の焼き印、ひどい……」

「うん」


 シガーラが激しく鳴いていた。

 夕日が二人の周りを白く照らしていた。ヨハネの傷だらけの背中も、メグの髪も、石で囲われた井戸も、その脇に立つ大きな木も、初夏の夕暮れにふさわしく白く色づいていた。

 暖かい風が吹いていた。

「ねえ」

 メグは小さな声で尋ねた。

「なに」

「どうしてマリアをそんなに助けたいの?」

「なんでだろうね。よく分からない。ただ……」

「ただ?」

「昔、助けなけらばいけない人を助けられなかった事があるんだ。私はそれを本当に後悔している。もう、後悔をしたくない。だからあの娘を助けたいんだと思う。君を助けたのも同じ理由だよ、メグ」


 ヨハネはメグに背中を向けたまま言った。

「うん」

 メグは、うなずくと、ヨハネの腫れ上がった背中のに軟膏を塗りながら尋ねた。

「いま『助けなけらばいけない人を助けられなかった』って言ったわよね。それってどんな人?」

「一人は母親、もう一人は初恋の娘だ」

「……そう」


 メグは目を伏せた。彼女の指は、ヨハネの腫れ上がった背中から、肩を通って右肘の傷口までをなぞった。

「今度はメグに聞いてもいいかな」

「いいわ」

「どうしてそこまで織物の仕事をしたかったんだ? どうして君とマリアは自分を担保にしてまでトマスから金を借りたんだ?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る