第121話 謎の男、イゴール

 そして椅子には背中の曲がった老人が仕立ての良い服を着てうずくまるように座っていた。

 ヨハネはその前に立った。

「イゴールの館にようこそ。ヨハネ。話は火傷のニコラスから聞いています。玄関に倒れていたあなたを助けたのも彼ですよ。よくお礼を言っておきなさい。苦労をなさったようですね」

「あなたは?」

「私の名前はイゴール。この館の主です。御安心なさい。あなたはここにいる限り安全です。市参事会しさんじかいの力もこの悪所あくしょには届きません」

 

 ヨハネはその老人を凝視した。低くしわがれた声で話すその小男は、仕立ての良い服を着て、ひじ掛けに両手を置いていた。椅子の横には杖が立て掛けてあった。それには凝った彫り物が入れ込んであった。ヨハネは尋ねた。


「あなたはいったいどういう方なのですか。この家は木賃宿きちんやどと言う呼び名がふさわしくない程しっかりした造りだし、あなたの服は古びているが良い生地を使っている。その杖も安いものではないでしょう。この木賃宿きちんやどに泊まっている者たちが大した金を払えるとも思えない。そうでしょう?」


 イゴールはしわがれ声を響かせながら笑った。

「この短い間にいろいろ観察したようですね。賢い人だ。トマスが目をかけるのも分かる。その年で奉公人かしらをしていたのも納得です」

「カピタンとお知り合いですか?」

「昔の彼を知っています。あの男がまだあなた程の年の頃です。あの男もさとかった。度胸もあった。今のあなたのようにね。私はあの男と一緒に仕事をしていたのです。もう何十年も前の話です」

「一緒に仕事をしていたという事はあなたも奴隷商人だったのですか?」

 イゴールは椅子に立て掛けてあった杖を手に取ると、その彫り物を爪でいじりながら、少し下を向いて話し始めた。


「私は奴隷商人だったのではありません。仕事を求めてエル・デルタの街に集まって来た人々に様々な仕事を割り振っていただけです。土木の人足にんそくが百名必要なら集めて送り出し、家事をする女中じょちゅうが十名必要なら集めて紹介していただけです。その際、紹介料を幾らかもらっていました。まっとうな口入れ屋です」

 イゴールはため息をつくと話し続けた。


「それがいつの間にか扱う人間の数が増えて行きました。職を求めて国中の人間がエル・デルタに集まって来たのです。人の数が増えれば給金は下がります。契約も雇われる側に不利になります。いつの間にか私のやっていた口入れ家業は、奴隷売買と変わらなくなってしまいました。そこで私は身を引いたのです。その後、あの仕事がどうなったのか、私は詳しくは知りません。今は確か『セレド大市場』とか言う名前になっているはずです」

「私はその市場から商会までの使い走りをよくやっていた!」

「そうですか。それは不思議な運命ですね。私が子供だった頃、私の家族はあの土地で豚を育てて売っていたのです。それでそんな名前が付いているのでしょう」

「あなたはあの奴隷市場に今でも関わっているのですか?」

 ヨハネは詰問するようにイゴールに言った。

「私は創業に関わったのです。まだ口入れ屋の頃です。その頃に大変な苦労をしました。その対価を毎月少しずつ貰っているだけですよ」

「という事は、この宿もあの市場からの儲けでやっているのですか?」

 イゴールは一息おくと、絞り出すように話し続けた。


「ここには、居場所のない者たちがたくさん暮らしています。家を失った男、夫に殴られ逃げてきた女、頼るべき親を失った子供、そんな人々に少しの金や軽い仕事と引き換えに、雨露をしのげる場所を与えているのです」

 ヨハネはイゴールを見つめ続けた。

「若い人よ。そんな目でこの年寄りを見ないで下さい。私は私で、いまできる精一杯の事をしているのです。この背中の曲がった老人をいじめないで下さい。私のように人生が晩秋ばんしゅうに差し掛かった者には、あなたのような若者の強い視線はまぶしすぎるのです。私は今、できるだけの事をやっているのです。それだけなのです」


 若者と老人は息苦しいほど硬い空気の中で対峙した。

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