第116話 馬防丸太

 ヨハネは、何度も馬へ鞭を当てた。箱馬車はきしみ音を上げながら、全速力で走り始めた。馬車に、ガチリ、ガチリと強い衝撃が走った。ヨハネが振り向くと長い矢が二本、箱馬車に突き刺さっていた。さらに大きな破裂音が聞こえた。マスケット銃の発射音だった。


 街から北の山脈へ向かう街道を馬車は軽々と走った。

 ここは数年前、ヨハネが人足として駆り出され、木槌きづちで石を一枚ずつ埋め込んだ道だった。彼は御者台の上から後ろを振り返った。昔、自分が行った仕事が今、自分を助けている、そう考えると自然に笑みがこぼれた。兵士たちの松明の光は次第に遠くなった。


 このまま、距離を取って道端に馬車を停めてから、メグを連れて悪所あくしょまで向かおう、そう思った瞬間、彼の目の前に細長い丸太が現れた。それは道を半分ふさぐように、斜めに置かれていた。馬車にはそれを避ける余裕も止まる時間もなかった。馬はその丸太を飛び越えたが、馬車はその丸太を車輪で引いた。その瞬間、馬車は鈍い衝撃音を立てて飛び上がり、横ざまに倒れ込んだ。車軸しゃじくは折れ、馬も倒れた。ヨハネは固い石畳みの上に投げ出され、体を強く打った。


 馬の悲鳴とヨハネのうめき声が薄闇うすくらやみに響いた。彼は痛みに耐えながら、自身の体を調べた。上着とズボンの両肘りょうひじ両膝りょうひざの部分が破れ、皮膚はえぐれて血が流れていた。破れたばかりの皮膚は白い断面を露呈ろていしていた。


 なぜ丸太が置いてあったのだろうか、そう考えて彼は道の先を見た。道には細い丸太が道を半分塞ぐように互い違いに斜めにして置かれていた。その数は十本ほどだろうか。夜、不審な馬車が速度を出してこの道を駆け抜けないように門番の兵士たちが行っている工夫に違いなかった。


 メグは?

 ヨハネは痛む体を引きずるように倒れた馬車に近づいた。折れた車軸の破片が周囲に飛び散っていた。馬は馬具を付けたまま路上に倒れ、必死に立ち上がろうとしていた。彼は自分の首を探って鍵を探した。幸いにも失くしていなかった。倒れた馬車の扉を鍵で開けた。中からはき込む声が聞こえた。

「……なに? なにが起こったの?」

「罠だ。馬車用の罠が道に仕掛けてあった。大丈夫か? ケガはないか?」

 横になった馬車の中から、ヨハネはメグの手を掴み引きずり出して立たせた。

「頭を打っちゃった」

「見せて」

 ヨハネはそう言うと、薄闇の中、メグの髪をかき分けて頭を探った。頭の右横が少しれていた。

「大丈夫。少しれているだけだ。それよりも早く逃げよう」

「馬は?」

「馬具を外している時間はない。それに馬はおそらく足を折っているだろう」


「いたぞ! 減速用の丸太に引っかかりやがった! 捕まえろ!」そう叫びながら、数人の兵士たちが松明を持って走り寄って来た。

「メグ! 走れ。あの丘の中腹にある街の光が悪所あくしょだ! そこのイゴールの館でまで走れ!」

「あなたはどうするの?」

「ここで時間を稼いでから、君に追いつく」

「そんなことできるわけないでしょ! あんなに大人数が追いかけて来るのよ!」

「いいから走れ! 裁ちばさみは持ってるな? 何かあったら、あれをナイフ代わりに使え。走れ! 走れ! 走れ!」


 そう言うと彼はメグの背中を突き飛ばした。メグは走り出した。途中何度か振り返りながら走り続けて、やがて薄闇の中、彼女の姿は見えなくなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る