第115話 関所突破

 今、彼の目的地は街の外にある悪所あくしょだった。そこに行く道は一本しか無く、市参事会しさんじかいが管理する門を抜けなければならない。アギラ商会の名前を出せば、滞りなく通過できるはずだった。しかし、ヨハネの奉公抜けと窃盗の連絡が門番たちまで届いているかもしれない。そうだったなら、すべては終わりだった。その場で大量の門兵たちに捕らえられて終わりだろう。


 馬車は幾つかの橋を越えて、街外に抜ける門に向かいつつあった。その前に、メグと打ち合わせをしておく必要があった。彼は通りの横に馬車を止め、後ろの馬車扉を開けた。


「メグ、大丈夫か?」

 ヨハネは御者台ぎょしゃだいを降りると、箱馬車の後扉を開けて行った。メグは膝を抱え顔を伏せて、泣いていた。

「メグ、泣くのは後だ。今から門を抜ける。私は急ぎの輸送馬車のふりをする。君は静かに奴隷のふりをしていてくれ」

「みんな……みんな……いなくなっちゃった。マリアは……わたしのせいで、」

「メグ! メグ! つらいだろうが、悲しむのは後だ。私たちの目的地は門を抜けた先にある悪所だ。そこにイゴールの館という木賃宿がある。あの火傷のニコラスはそこに住んでいる。もし門で脱走がばれたら、二人バラバラに走って逃げる。分かったね」

「……」

「これを持って来たよ」

 ヨハネはそう言うと、腰に付けていた裁ちばさみと革靴をメグに渡した。

「これ、わたしのはさみと靴。残ってたんだ……」

 メグは泣き腫らした目の奥を少しだけ輝かせて答えた。

「工房と台所に残っていた。靴を履いておいてくれ。走って逃げる時、助かるだろう。とにかく君は従順な奴隷を装ってくれないか。後は私が何とかする」

「わかったわ。まかせる」


 ヨハネは馬に鞭を当てると、馬車を出した。しばらく石畳の上を行くと、街の外へ続く門が近づいてきた。その門は馬車が二台すれ違えるほどの横幅があり、門の上には櫓が組まれていた。四人の見張りの兵士が弓矢とマスケット銃を持って周囲を見張っていた。門前の両側には、大きなかがり火が一つずつ、周りを威嚇いかくするように燃え盛っていた。その周りには鋭い槍を持った徒立ちの兵士が十人ほどたむろしていた。


「おーい、停まれ!」

 槍を持った兵士が馬車の前に立ちはだかり、大きく手を広げて立ちはだかった。ヨハネは馬車を止め、固唾を飲んだ。二回目の勝負所だった。その兵士は、御者台ぎょしゃだいのヨハネの所までくると、固い口調で、名前と所属と目的を言え、と鋭い声で言った。

「私の名前はヨハネ、アギラ商会の奉公人頭、取引先まで女奴隷を運ぶ途中だ」

 ヨハネは早口で言った。

「ああ、アギラ商会の方ですか。しかし、こんな時間に箱馬車で、奴隷を運ぶなんて珍しいですね。たいてい奴隷用の馬車で、正午に運ぶのが通例なのに」

「急ぎの用なんだ。私もこんな時間に使いをやる羽目になって驚いてる。何でも特別な取引先の頼みだとかで、昼の仕事が終わった後に今度はこの仕事だよ」

「そうですか、それは大変ですね。この箱馬車はアギラ商会の物ですか?」

「ここを見ろよ」

 そう言ってヨハネは鞭で馬車に付いているアギラ商会の紋章を指した。

「確かに」

 そう言うとその兵士は門にいる他の兵士に向かって怒鳴った。

「門を開けろ!」

 門の扉は軽い軋み音を上げて、内に向かって八の字に開いた。

 ヨハネの全身は総毛立った。

 彼は震える手で馬に鞭を入れると、馬車を前に進めて門の外へ出た。


 門の外は広い草原だった。北の山脈に向かって続く街道がその中を貫いていた。ヨハネは速度を上げようと、もう一度、鞭を入れようとした。

 そのとき、先ほど通り抜けた門からは、馬蹄ばていの音が街へ向かって消え去った。

「ちょっと待って!」

 先ほどヨハネを誰何した兵士がこちらに走ってきた。

「すみませんが、荷を改めさせてもらっていいでしょうか? なにせこの時間帯の奴隷運搬は珍しいのです」

 ヨハネの心臓は縮みあがった。

 しかし、彼は努めて平静を装いながら馬車を停めて答えた

「どうぞ。奴隷が逃げないように気を付けてくれ」

 そう言うと彼は御者台ぎょしゃだいに座ったまま、後扉の鍵をその兵士に渡した。

「分かりました」

 兵士はそう答えると、箱馬車の扉を開けた。中にはメグが入っている。賢い彼女ならうまく奴隷のふりをするだろう、とヨハネは希望的に考えた。

 その兵士は扉を開け、しばらく馬車の中を見ていたが、扉を静かに閉めると鍵を返しながら言った。

「ヨハネさん。お手をわずらわせました。確かに高く売れそうな奴隷ですね。お気を悪くされないで下さい。これが我々の仕事なのです」

「終わったならもう行くぞ。急いでいるんだ」

 ヨハネは緊張のあまり、手を軽く震わせながら言った。

「ヨハネさん。一休みしてゆきませんか。みんな退屈しているんです。もう何週間も市内に帰らず、ここで門番をしているのですからね。街の様子が知りたいんですよ」

 その兵士は言った。

「いや、せっかくだが、急いでいるんだ。早く終わらせて、早く帰って眠らないと明日に仕事に差し支える」

「まあ、そう言わずに」

 そう言ってその兵士は御者台ぎょしゃだいの足置き台まで登って来るとヨハネの肩に手を置いた。その手は、好意より、ヨハネを捕まえておきたいという意思がこもっているかのように固く冷たかった。


 ヨハネは考えた。

 さっき兵士を乗せた馬が街に向かって走り去った。あれはアギラ商会に事実確認をするために行ったのではないか。メグには、裁ちばさみと革靴を渡して靴を履くように言った。ヨハネの言った通りメグが革靴を履いていたなら、あんな上等な革靴を履く奴隷などいるわけがない。


 気付かれた!


 そう思ったヨハネは足置き場に立っている兵士を突き落とすと、馬車に鞭を思いきり入れた。馬は悲鳴のような鳴き声を上げると全力で走り始めた。

「おい! 待て! 待て! 関所破りだ! 関所破りだ!」

 突き落とされた兵士は味方の兵士たちへ向かって怒鳴った。

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