第57話 奉公人頭 ヨハネ

 ヨハネは商会の建物に入ると、階段を上って右手にある奉公人頭ほうこうにんがしら用の部屋に入った。

 そこは煉瓦れんがの壁に囲まれた狭い部屋で、商会の裏が見渡せる小さな蔀戸しとみどが付いていた。家具は机と椅子と小さな折り畳み式の寝台だった。そしてヨハネが廃材から作った縦長の本棚があった。そこにはトマスにもらった古くて茶色に変色した紙の束と、羽ペン、そして何冊かの本があった。それらは、算数、書き取り、簿記、地理などの入門書だった。ヨハネの分際では、本のような高価なものはとても買えなかったが、トマスから借りた本をヨハネは必死に書き写した。ヨハネは仕事の前に早起きして蔀戸しとみどを開け、窓の朝日で勉強をした。トマスがなぜヨハネの勉強に手を貸すのかその理由は誰にも分からなかった。


 ヨハネがこの街に売られてきてから五年、ティーとの別れから三年の月日が流れた。


 ヨハネはあの一件以来、しばらく魂の抜けたように暮らした。しかしながら、すぐに元の働き者のヨハネに戻った。

 彼は市参事会しさんじかい商会しょうかいの仕事を全力でこなしたが、それだけでヨハネは終わらなかった。

 

 神殿の解体作業では、解体しながら建物の構造を少しでも憶えようとした。石垣の積み上げ作業では、石の裏に詰める砂利を何度も手ですり合わせてその種類を手で憶え、割栗石わりぐりいしを両手に持って重さを比べて、その重さと大きさを憶えようとした。河さらいの仕事では、この街の河がどのように流れ、防波堤がどう作られているか理解しようとした。夜警に街を歩く仕事の際は、市参事会しさんじかい世話人せわにんが、夜警やけいをどのように配置し、見回りを行わせているか観察した。馬車の手入れでは、様々な種類の馬車の構造を詳しく知ろうとし、馬の世話をする際は、馬の生態をできるだけ知ろうとした。


 奉公人のヨハネに仕事を教えてくれる酔狂な人間などいなかった。だからヨハネは必死に様々な仕事を自得じとくしようとしたのだ。簡単な読み書きと初歩的な算術しかできなかったヨハネは、商会の勘定係かんじょうがかりに頼み込んで、反故ほごにする藁紙わらがみを分けてもらい、そこに書き付けられた文字や数字を丸暗記した。伝言役として街を走る時も、様々な看板の文字を丸暗記した。そうするうちに少しずつ、読み書きが身に付いてきた。


 勘定係の部屋にあるゴミを片付ける時、商会の勘定に係わりのありそうな書類をこっそり持ち帰っては、その文字を暗記した。それでも独学は限界があった。ヨハネは誰か教えを乞う人間がいない事を心から無念に思った。


 いま外から帰ったヨハネはトマスから借りた会計の本を手に取った。それは遥か遠く海の向こうにある貿易国家で書かれた金銭管理きんせんかんりについて書かれた本だった。ヨハネはかろうじて文字を読めたが、複雑な数式が出てくるとお手上げだった。深くため息をついて、本を本棚に戻すと、部屋を出て馬小屋へと向かった。今日は港にアギラ商会と契約しているガレオン船が、沖に碇を降ろす日だった。そこからハシケに乗ってヨハネの友人のペテロが帰ってくるはずだった。それを迎えに行くために、ヨハネは馬車の用意を始めた。六か月ぶりの再会だった。

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