第53話 馬糞の中

 大馬車はロス・カバジョスの中に入った。


 ヨハネは格子戸こうしどに顔を押し付けて夢中で外を見た。街道の脇にはたくさんの屋台が店を出していた。なにより目立ったのが、馬車と馬だった。馬車は空き地に整然と駐められ、人足にんそく馬子まごたちが忙しそうに荷の積み下ろしをしていた。


 さらにヨハネの目を引いたのは馬市うまいちだった。

 様々な色の馬たちが集められていた。あちこちの広場で馬飼うまかい達が、自分の育てた馬に少しでも良い値で売ろうと大声を上げて客を呼び込み、客と値段交渉をしていた。ヨハネはその様子に圧倒された。人間より馬の数が多いのだ。その馬臭さと熱気に目をくらませた。


 やがて大馬車は粗末な宿屋の前に泊まった。御者が大馬車の中に向かって格子窓ごしに怒鳴った。


「おい! 目の青いのと、金髪の大男以外は乗り換えだ。隣の馬車に移れ!」

 ワクワクたちはぞろぞろと大馬車を降りると隣の馬車へと移った。

「今日はここで休みだ。しっかり寝とけよ」

 護衛は怒鳴ると、大馬車の中に固くなったパンと豚の膀胱で作られた水袋を幾つか投げ込んだ。

「待ってください。便所はどうするんですか?」

 ペテロが聞くと、汚い桶が一つ馬車の中に投げ込まれた。そこにしろ、という事だろう。

 御者と護衛の大半は宿屋の中に入った。しかし、御者のひとりと護衛の男は残ってペテロとヨハネの見張りを続けた。ヨハネは御者台ぎょしゃだいの後ろの格子窓に顔を付けて、外の情報を少しでも得ようとした。


「馬車を移されたワクワクたちはどこに行くんですか?」

 御者はめんどうくさそうに答えた。

「あいつらは鉱山行きさ。たいていの奴隷はそうだ」

「僕たちはどこに行くんですか」

「おまえたちは南の港町だ」

「なにをさせられるんですか?」

「知らねえよ。俺たちは決められた荷物を決められた時間までに届けるだけだ。それより近づくんじゃねえよ。臭くてかなわねえや」


 ヨハネは頭に血が上った。反射的に格子窓を両の拳で力いっぱい叩いた。

「なんだあ!」

 御者の男は怒鳴り声を上げると格子戸の間から手を伸ばしてヨハネを掴もうとしたが、ヨハネは後ろに飛び去ってよけた。気の収まらない御者は大馬車の外を叩きながら後ろの扉までやってくるとガチャガチャと音を立てて鍵を開け始めた。

「知恵足らずのワクワクの分際で俺にたてつく気かよ。そこで待ってろ。鼻へし折ってやる」

 ヨハネは身構えた。

 ペテロは座ったまま「よせ、よせ」と言った。

 すぐにきしみ音がして扉が外側に空いた。御者が憤怒の形相で仁王立ちになっていた。ヨハネはそれを見て素早く御者の足の間をすり抜けると、大馬車を出て、街の人ごみの中に走り去った。


「おーい、ワクワクがひとり逃げたぞ」


 ヨハネは後ろで御者が大声で叫ぶのを聞いた。

 ヨハネは全力で走りながら、左右を見渡した。宿屋がある通りを真っ直ぐに走ると、馬市をやっているはずだった。そこにまぎもうとヨハネは後ろも見ずに走った。通りを行く人々は振り返ったり立ち止まったりしながらヨハネを見ていた。ヨハネは馬市に入り込んだ。そして物影に隠れると後ろを見た。鞭を持った御者と槍を持った護衛たちが口を真っ赤に開けて、ヨハネを探し回っていた。


「おい! いまワクワクの若いのが逃げてこなかったか?」

 御者は鞭をしごきながら近くの馬飼いの男に聞いた。

その男はヨハネが隠れている物影をあごでしゃくって指し示した。

 ヨハネは脱兎の如く走ると馬市のさらに奥まで走った。


 馬市は見渡す限り、馬で覆いつくされていた。葦毛あしげ栗毛くりげ、白、粕毛かすげ駁毛ぶちげ、様々な馬がヨハネの姿を追っての目から隠してくれた。そして馬市の角にある、馬糞の山の側まで走るとヨハネは、馬糞で服と顔を汚した。そして自分の半身を馬糞の山に埋めて座った。追手は馬糞の山の近くまで来た。


「うわっ、くせえな」

「こんなところにいるわけない。人ごみに紛れているんだ。探せ。あいつには五十万ジェン近い元手が掛かってるんだ」

 追手おってたちの声が聞こえた。


 ヨハネは馬糞にまみれながらこれから先の事を考えた。どこかで釣り竿と釣り針を手に入れよう、そして、釣りをして食べ物を手に入れながらエリアールまで帰ろう、そう考えた。

 追手おってがいなくなると、彼は馬糞の山を離れて人ごみの中に紛れ込んだ。みな馬の品定めと取引に夢中で汚いなりのヨハネには目線もくれなかった。


 この先、民家と市場の密集する町を抜けて坂を昇ればエリアールに向かう北の街道へたどり着くはずだった。

 それではこんな馬糞まみれの格好ではまずい、そう考えたヨハネは町はずれの池まで行くと全裸になって服と体を洗った。服を思いきり絞って水気を落としたが、濡れた服を着ると、歯が鳴るほどに寒かった。

 次は釣り道具を手に入れなければならない。ヨハネは町の真ん中にある小さな湖まで凍えながら歩いた。


 湖には、たくさんの人々が釣りをしていた。

 みな釣りに集中していた。ヨハネは彼らを凝視した。中には何本も釣り竿を持ってきている者もいた。ヨハネは近くに落ちている長い木の枝を手に持って、さも自分も釣りをするように湖に近づいた。そして、数本の釣竿を持っている男の側に近づき、釣りをするふりをして側に座ると、自分の木の枝とその男の釣り竿をそっとすり替えた。ヨハネは罪悪感と恐怖感で心臓を高鳴らせながら、そっと湖の側を離れた。後は町を横切って北へ伸びる街道まで行くだけだった。


 ヨハネは町を横切った。ちょうど馬借ばしゃくたちの大集団が到着した直後らしく、通りはごった返していた。

 宿屋の呼び込み、飯屋の臭い、酒屋の酌婦たちが上げる嬌声きょうせいなど、人々の欲望と喧騒がそこには満ちていた。ヨハネが顔を上を見ると、もう夕暮れだった。夕日の当たる通りを筋骨隆々きんこつりゅうりゅうたる馬借たちが大声で話しながら歩いていた。

 その間をヨハネは釣り竿を抱えて通り過ぎた。


 やがて、街のはずれまでくると、建物の色が朱色に塗られた通りが姿を現した。


 看板には『飯屋』と書いてあったが、店先には派手な服を着た中年の女が立ち、若い女たちが服の胸元を大きく開けて、店の中から手招きをしていた。彼は下を向いて足早に通り過ぎた。

 ヨハネは町を出る事に成功した。

 彼はすっかり暗くなった街道の登り坂を北に向かって歩いた。方角は星を見て検討を付けた。彼は腹を空かして、トボトボと暗い街道を歩いた。昼間、休憩した池まで足を引きずりたどり着いた。

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