第51話 死臭

「座ろう」とペテロが言った。


 二人は一番奥の御者ぎょしゃのすぐ後ろにある格子窓こうしまどの側に座った。

 ワクワクたちはみな口を利かなかった。

 御者は二人いて、ワクワクとは違う言葉で話し合っていた。その大きな言葉は大馬車の中にも響いてきた。ヨハネはその言葉を聴き取ろうと集中した。その言葉はエリアールの宣教師たちが話していた言葉に似ていた。ヨハネはそれを断片的に理解できた。


「……この大馬車のワクワ……はいくらで売れんだ?」

「男で良品だから、四百万ジェンくらい…並みの品なら三百万ってとこだな」

「……女なら言い値で売れんだろ……」

「……んなって言っても所詮はワクワクだから、五百万ジェンってとこだべや」

「一人連れて来るのにかかる経費が百万ジェンだから大儲……ぼろい商売……」

 そこまで聴き取るとヨハネは揺れる馬車に気分が悪くなって、壁にすがって目をつむった。今の彼にできる事は何もなかった。


 馬車はエリアールの大河の沿い、南の山脈へ向かって進んだ。ヨハネが何度も釣りに来た事がある所だ。馬車の揺れはひどく、ワクワクたちを体も心も疲れさせた。ヨハネは強い眠気を感じると浅い眠りに落ちた。


「……おい、ヨハネ。休憩だ」

 ペテロの声で、ヨハネは目を覚ました。ヨハネが目を開けると大馬車は止まっており、後ろの扉が大きく開いていた。馬車の中にいるのはヨハネとペテロだけだった。二人はそろって外に出た。大馬車は街道を外れた空き地に停車していた。他のワクワクたちは近くにある池の水を飲んだり、草の上に寝転がったりしていた。


 ヨハネは周りを見回した。


 そこは山の中腹にある、今までに見た事のない深くて暗い森だった。エリアールで見る乾いた灌木かんぼくではなく、黒緑こくりょくの葉を付けた巨大な木々がヨハネたちを取り巻いていた。その木々は根元からうねるように天に伸び、その大きく黒い樹葉が太陽を隠していた。そしてその根元には深い緑の苔が地面を覆い、地面からはみ出した根が、軟体動物なんたいどうぶつの足のように隣の木に絡みついていた。そんな木々に取り付かれた山々が南に向かって延々えんえんと続いていた。それらは、ヨハネが初めて見る深くて黒い森と、硬い大岩根おおいわねに深く根を下ろし何万年もの年月をけみした山々の姿だった。


 溜り場たまりばは街道の隣にあり、溜り場の下は崖になっていた。その下には南から北に流れる渓流があった。それはエリアールを流れる大河の源流の一つだった。大きな石が幾つも転がり、清流がその岩を洗っていた。そこから湧き上がった水しぶきは黒い森の木々に吸い込まれ、陰鬱いんうつで湿り気のある空気を作り出していた。ヨハネは道を振り返った。道を下った遥か向こうに海と砂荒らしで霞んだエリアールが見えた。


 もう故郷には帰れない。


 そうヨハネは思うと、涙があふれた。

 しゃがみ込んで顔を覆った。


「おい、ヨハネ……」

 ペテロがヨハネの肩に手を置いた。ヨハネはそれを振り払うと、池まで走り、顔を洗って涙をごまかした。その様子を御者と護衛たちが顔に薄ら笑いを浮かべて見ていた。ヨハネは池の水で顔を洗い続けた。


 旅は続いた。南へ南へ、大馬車はヨハネたちを乗せて進んだ。急に大馬車は街道の右にあるいのための空き地に外れて停まった。


「おい、おまえら。降りていいぞ」

 御者の男がそう言うと後ろの扉が開いた。


 ヨハネは馬車から降りた瞬間、弱い地鳴りを地面に感じた。


 いったい何だろう、そう思うと街道の南から馬車の大群が北上してきた。

土煙を上げ、何十台もの馬車が一列縦隊いちれつじゅうたいになって驀進ばくしんしていた。

 ヨハネは驚いて一歩後ろに下がった。目の前を荷物運搬用の馬車が砂埃を舞い上げながら、地響きを立てて通り過ぎようとしていた。ヨハネはその数を数えた。馬車は五十台あった。


 その間に、馬車の上から汚い袋が幾つか投げ捨てられた。それは街道の脇の崖を下へ勢いよく転げ落ちた。

「あの馬車たちは?」

 ヨハネは御者の男に尋ねた。

「銀山の銀貨を運ぶ馬車隊だ。山の南の港町まで運ぶ帰りだろ。荷物がないから速いもんだ」

 御者は大儀そうに答えた。

「あのズダ袋は何ですか?」

「知らねえよ。おまえ小便すましとけよ。あと、逃げられるなんて思うな」と脅した。


 ヨハネの周りには槍を持った護衛たちが数人、ヨハネを睨みながら立っていた。

 ヨハネは小便のために、街道脇の暗い草むらに入った。護衛も一人付いてきた。ヨハネは物影を見つけると、茶色い盛り土に向かって放尿した。ヨハネがホッとして自分の小便の先を見ると、人の顔がこちらを睨んでいた。ヨハネは声にならない声で悲鳴を上げると、尻もちを付いた。生温い小便がヨハネの股間を濡らした。

「やっと気が付いたか!」

 護衛の男はあざけり笑った。


「さっきの馬車隊が捨てていった死体だ。多分、銀貨の運搬を手伝わせていた奴隷の死体だろ。おまえが気付かないから黙っていたんだ」


 ヨハネは、尻もちを付いたまま自分の小便で濡れた死体を見た。

 ズダ袋が投げ捨てられた時、中から上半身がはみ出したのだろうか、それは中年の男の死体だった。頬はこけ、皮膚は薄くなり頬骨が突き出ていた。唇は縮み、歯がむき出しになっていたが、その歯は何本か折れていた。目は白くにごり、眼窩がんかまで落ち込んでいた。その周りを真っ白なうじ数匹這はいいずり回り、大きな蠅が羽音を立てて飛び回っていた。

 

 ヨハネは全身を震わせながら馬車の中に戻った。そして膝を抱えて胎児のように丸くなるとそのまま震え続けた。彼の体には奇妙な臭いがこびり付いていた。


 それは死臭ししゅうだった。


 死臭ししゅうがヨハネの体に染みついたのだ。あのほんの短い時間に。


 あの死体は乾燥した目で今までいったいどんなものを見続けてきたのだろうか、あの男の死体は数年後の自分の姿ではないか、そう考えながらヨハネは震え続けた。自分の股間から立ち昇る小便の臭いも忘れてただ震え続けた。

 何とかして逃げなければならない、と小便の臭いと大馬車の暗闇の中で彼は決心した。

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