第50話 契約と離郷

 ヨハネは自分の小屋に帰った。

 彼が生まれ、母と共に十五年間過ごした家は、西風で傾き、砂に埋もれかけていた。

 彼と彼の母親が苦しみながら耕した畑は、すでに砂の庭になっていた。

 その端にある墓石は半分ほど砂に埋もれていた。


 彼は小屋に走り込むと、釣り針の入った木箱を取り出した。そこに今まで使っていた釣り針を足した。そしてそれを持って母の墓石の前まで走って跪くと、その周りを両手で掘り返した。そして木箱を押し込むと砂で埋め戻した。彼は墓石を見つめ、振り返って傾いた自分の生家を見つめた。

彼は完全に身一つになった。

 そしてペテロとの待ち合わせ場所まで、ゆっくりと歩きだした。


 人買い達が借りている小屋の前はワクワクたちが門前市をなしていた。

 みな痩せて服の襟には垢がびっしりと付いていた。周囲には異様な臭気が漂っていた。糞尿ふんにょう嘔吐物おうとぶつの乾いた臭いだ。そこに粥の臭いが漂ってきた。身売りの契約を済ませたワクワクたちに、その場で喰わせるための食事だった。ヨハネは悪臭あくしゅうと粥の臭いが混じった異様な臭いに、食欲と吐き気を同時に感じた。彼の後ろにも人が並び始めた。みな若かった。

 人買いが借りている小屋の周りには長い槍を持った護衛が何人もたむろしていた。みな筋骨隆々きんこつりゅうりゅうたる男たちで銀色に光る穂先ほさきの付いた槍を持ち、腰には太い短刀を下げていた。


「男と女は別の列に並べ!」

 護衛の男が怒鳴った。

「契約が終わった者から、飯を食っていいぞ。好きなだけ喰え。パンもあるからな」

列は少しずつ進み、ヨハネの番になった。

 大きな机が小屋の前に置かれていた。その机の奥に大きな椅子を置いて、人買いの親玉が座っていた。机の上には何十枚もの同じ契約書が重ねてあり、ヨハネから見て左に赤い染料せんりょうで満たした平たい陶器とうきが置いてあった。

「左手を染料で染めて、契約書の真ん中に手形を付けろ」

その男は言った。

 多くが文盲のワクワクたちは、契約の内容も知らずに、手形を付けて契約を結び、机の後ろにある小屋に入っていった。

 餓えている彼らに否応いやおうなどなかったのだ。

 ヨハネは机の上に置いてあった鵞鳥の羽根ペンを取り上げると『Johannes』と契約書に書き付けた。


「ほう、おまえ、字が書けるのか」

 人買いの親玉はいた声で言った。

「はい」

 ヨハネはそれに気圧けおされて、震える声で答えた。

「いいぞ。いいぞ。その方が高く売れるからな。奥に行って飯を喰え」


 ヨハネは小屋の奥に入った。


 小屋には大鍋がしつらえてあり、その下ではたき火がトロトロと燃えていた。その中には黄色い粥が悪臭を放ちながら煮えていた。質の悪いひえを煮ると出る臭いだ。大鍋の前には契約を終えたばかりのワクワクたちが列を作って並んでいた。みな木の器とさじを持っていた。汚れた前掛けを付けた男が、大きなヘラでその粥を配っていた。その男は順番にべちゃり、べちゃりと粥を器に叩きつけていた。


 みな床に胡坐をかいて粥をすすり込んだ。ヨハネもそうした。大皿に盛りつけられたパンにもみな齧りついた。ヨハネはとにかく食べ物にありつけて喜んだ。彼が入り口を見ると、ペテロが人買いの親玉と話をしていた。彼は手の型を契約書に付けると、粥とパンを貰ってヨハネの方へ歩いてきた。


「よう。ヨハネ」

「ペテロは何を話してたの?」

「俺は体のでかさを褒められてたのさ。高く売れるって。ははっ。おまえは?」

「字が書けると高く売れると言われた」

 ペテロはヨハネに顔を近づけて、小声で言った。

「どうやら、人買いの親玉はワクワクの男を二つに分けているらしい。安く売り払うのと高く売れるのだ。おまえは字が書ける事、俺は体格が良い事で高い方に分けられたんだ」


 その言葉を証明するように、ヨハネとペテロ以外のワクワクたちは人買いの護衛たちに促されて、ぞろぞろと小屋を出ると黒塗りの大馬車に乗せられた。馬に鞭打つ音が聞こえ、馬車が動き出した。地鳴りがして馬車が軋みながら動き出した。残ったのはペテロとヨハネだけだった。


「みんなどこに連れていかれるんだろう」

ヨハネは不安をまぎらわす自分の体を撫で回しながら言った。

「男たちは鉱山だろう。あちこちにある金山や銀山だ」

 その時、また別の馬車が動き出す時の地鳴りがした。

 女の悲鳴や泣き声が聞こえた。

「あれは?」

ヨハネは顔を真っ白にしてペテロに尋ねた。

「女たちの馬車だ。行先は同じさ。鉱山だよ。炭鉱で働くのもいるし、女中じょちゅう賄い婦まかないふ飯盛り女めしもりおんな、売春婦……」


 ヨハネの心臓はドクリと拍動した。自分はどうなるんだろうか、胸が痛くなるほど強烈な不安が彼の体を苛んだ。

「おい、そこの二人! こっちの馬車に乗れ!」


 一人の護衛が槍を二人に向けて怒鳴った。二人はその護衛について歩いた。ヨハネは唇を強く噛んで、不安に耐えた。ペテロは鼻歌を歌いながら歩いていたが、体のあちこちを掻きむしっていた。二人は真っ黒な大馬車の後ろまで連れていかれた。その後ろは大きく開かれ、台が置かれていた。ヨハネが先に中に入った。

 汗と粥の臭いがヨハネの鼻を突いた。中は薄暗く、両脇に付けられた木製の格子窓から薄明かりが差し込んでいた。体格の良いワクワクの男たちが十人ほど、すでに中で座り込んでいた。後ろを振り返ると、ペテロも乗り込んでいた。バタン、と音がして大馬車の扉が締められ、ガチャリと鉄の錠が降ろされる音がした。ヨハネはペテロの腕にすがりついた。さすがのペテロも顔を青くして、首筋を掻きむしっていた。


 馬のいななく声と、軽い衝撃音がして大馬車が動き出した。

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