第49話 飢え

 その年、エリアールを悲劇が襲った。


 いつもの年以上に砂嵐がひどく、ひえくりは昨年の半分も取れなかった。エリアールを流れる大河の川上かわかみで地崩れと鉄砲水が起こり、水は濁って魚は取れなくなった。

 みな困窮した。

 蓄えのある者はそれを食いつぶしたが、その余裕のない者は身を売るしかなかった。

 ワクワクたちの困窮を見越したように、馬借たちと共に人買いがやって来た。彼らは四頭立ての大きな馬車を大量にしつらえて、大河の切り通しを大挙してやって来た。彼らはエリアールにあるあちこちの村の空き家を借りて滞在した。そしてその横に真っ黒に塗った大きな馬車を幾つも停めた。

 その馬車は異様な外観をしていた。横長の細い箱には木製の格子窓こうしまどが幾つも付けられ、上から蓋をするように分厚い天井が取り付けられていた。馬車の後ろには分厚いかしの木の扉が取り付けられ、大きな鉄の錠前が付いていた。それを引く馬たちは真っ黒な青毛あおげの馬で、その体高はワクワクたちの身長より高く、肩と尻の筋肉は盛り上がり、見る者をを威圧した。

 衣食住を保証する代わりに、ワクワクたちに仕事を斡旋あっせんする、その代り多少の手数料を取る、というのが人買いたちの言い分だった。


 いったいどんな仕事をさせられて、どれだけの給料が貰えるのか、はっきりしなかった。それでも彼らが作った身売り用の臨時小屋には、たくさんの若いワクワクたちが列を作った。男たちは炭坑夫たんこうふ沖仲士おきなかせ傭兵ようへいで、女たちは女中じょちゅう、真珠取りをやらされる、その代りに給料に加え十分な食べ物と新しい服が与えられる、という噂だった。手続きは人買いが借りている小屋の入口で行われた。文盲もんもうの多いワクワクたちが、契約書に赤い塗料で手の型を付けると、すぐその後ろに作られた食堂で食事が取れる仕組みになっていた。餓えたワクワクたちに選択肢はなかった。

 

 ヨハネとペテロはそんな騒ぎを横目で見ながら、あちこちの釣り場を毎日まわった。釣果ちょうかは明らかに減っていた。いつもとれるはずの鯉は毎日一、二匹しか釣れず、海や大河に行っても泥水で汚染されている上に、水害のせいで細かい灌木がたくさん水に浮き釣り糸を切ってしまうので、釣りは行えなかった。二人が足を引きずりと大河脇の切り通しを家路に付いていると、一台の四頭立て馬車が通った。巨大で、全体を真っ黒に塗られていた。馬車は細長い箱のように作られ、窓には格子がはめ込まれていた。二人は脇によけてその馬車が通り過ぎるのを待った。ヨハネはその馬車の格子窓こうしまどから、自分の服を縫ってくれたお姉さんの顔を見た。


 あの人も身を売ったのか、とヨハネは衝撃を受けた。


 その後も、ヨハネの周りからは少しずつ人が少なくなっていた。

 同居していた産婆は、森に茸を取りにいくと言って出たまま帰らなくなった。ヨハネはペテロと一緒に懸命に探したが、「あのばあさんも、年だからね。自分で山に入ったのさ」と人々は口々に言った。

 宣教師たちは人買いの元を訪れて、人身売買を止めるように訴えたが、屈強な護衛につまみ出されてしまった。

 ヨハネの借り畑はすっかり砂に埋もれてしまい、もはや収穫は望めなかった。飢えがヨハネを襲い始めた。足の力が抜け、目がかすんだ。体温が下がり、寒くもないのに何度も身震いをした。


 ヨハネは食べ物を探し歩きながら、バンブーの森を秘密の小屋まで歩いた。あまりの辛さのせいで、草の上にへたり込んだ。

 バンブーの木の葉と地面に生えた雑草は、強い緑色を放って彼の体と心を刺激した。

 その生命の力はいったいどこから来るのだろうか、宣教師たちが言うように、造物主のなせる業なのか、それとも大地の奥々から吹き出る命の力なのか、なぜ、自分はその力を体の中に取り込む事ができないのだろうか。


 そう思いながら草の青葉をにらみ付けていると、彼の乾いた口の中に、生唾が湧いてきた。彼は、目の前の草をむしり取った。すると何か柔らかい物が彼の手に触れた。彼は反射的に手を引いた。

 それは死んだばかりのてんの死体だった。金色の毛皮は、つやを失って黄色に変色していた。ヨハネはその死体をしばらく凝視していた。彼はそれにゆっくりと右手を伸ばしたが、その手を震わせながら元に戻して、胸に当てると、左手で右手を押さえた。そして立ち上がると、また歩き始めた。

 途中、木の葉や草を口の中に入れた。とにかく何かを噛んで飢えを紛らわそうとした。が、そのせいで彼は激しい下痢をした。体からすべての水分が抜けていくような激しい下痢だった。

 竹の小屋までたどり着くと、ペテロが胡坐あぐらをかいて、釣り糸を編んでいた。


「ヨハネか。顔色が悪いな。魚は釣れたか?」

 青白い顔でペテロは言った。

「いや、ここ二日ぜんぜん釣れない」

 ヨハネは両手で自分の両肩を抱きながら言った。

「もう、身を売るしかないかもな。もうそろそろだ」

 ペテロ自慢の金髪は張りと腰を失って、枯れ葉のように彼の額にへばり付いていた。

 ヨハネは入り口に寄りかかったまま、胡坐あぐらをかいているペテロと見つめ合った。ヨハネは大儀たいぎそうに口を開いた。

「行くよ」

 ペテロは座ったまま答えた。

「俺も行く」

「なんで。ペテロまで行くの?」

「俺は今まであちこちの親戚に飯を食わしてもらってた。けど、最近食い物を貰いにいくと嫌な顔をされるんだ」

「そうなのか」

「ああ、それに俺はこの土地で一生終える気はないんだ。こんな荒れた土地でさ。むかし、馬借たちについてきた、踊り手たちを覚えているか? 俺はあの人たちみたいにいろんな土地を見てみたい」

「でも、身を売るって事は、どんな目にうか分からないよ」

「大丈夫さ。それに……」

「それに?」

「この土地にいて、どうにかなるのか?」


 ヨハネは何も言い返せなかった。

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