第47話 腔腸の心

 マール・デル・ノルテの海はいつも荒れていた。


 その水面は曇天どんてんの空を映していつも黒灰色こくはいしょくに染まっていた。その波は細かく細かく繰り返し浜に押し寄せ、そのたびに海に向かって逆走して後続こうぞくの波とぶつかった。そのせいで、浜から見る黒灰色こくはいしょくの海には逆波さかなみが白い網目模様あみめこようを作り、海水が泡立った。


 ヨハネは波打ち際で深呼吸をすると、その塩気に満ちた空気を肺いっぱいに吸い込んだ。その一瞬、彼は自分の体の中が海水で満たされたような錯覚を覚えた。それは強い懐古かいこの心だった。からだ全体の細胞が、安らぎと活力を同時に得た不思議な体感だった。それこそが母を亡くしたヨハネにとって、言語で得る物語よりもはるかに重要な、体の芯で感じる原初的な魂の物語だった。



 その夜、ヨハネは長い長い夢を見た。


 彼は、冷たい伏流水ふくりゅうすいの湖を漂っていた。そこは上下左右の区別なく、過去未来の差別もなかった。彼の五体はあってしかるべきものがなく、無くてしかるべきものがあった。彼の存在がよって立つものはただ一枚の有機質ゆうきしつまくだけだった。のない彼は、ただただ水の中を漂った。そして近くに大きな温かみを感じた。あってしかるべき物のない彼がいったいどうしてその存在に気付いたのか、彼自身にも分からなかった。彼はただそれを感じた。それは蠕動ぜんどうする細長い筒だった。それは時に棒状ぼうじょうに、時に波状なみじょうに、時に螺旋状らせんじょうに形を変え、筒の前から後ろに伏流ふくりゅうの水を通過させた。筒の入口と出口は時にすぼまり、時に広がり、一時も一つの形を取り続けなかった。それはまぁー、まぁー、まっー、と唇音しんおんを上げながら、出入り口の方向に拍動はくどうを繰り返した。その入り口が大きく開いた時、彼はその中に吸い込まれた。


 彼はその中でぬめりと温かみに包まれた。真っ暗なそこから見るその存在は一面を覆いつくす状の血管と見渡す限りの絨毛じゅうもうで覆われていた。彼はその中を入り口から奥に向かって拍動に合わせて進んだ。やがて彼はある別の彼に出会った。それは彼に足りないものを持ち、彼に余るものを持たない存在だった。彼はそれの顔を見た。まったく彼と同じ顔だった。彼と別の彼は何の口もきかずに同化した。彼の全体は多少変化したが、何も失わなかった。だが、その瞬間に周囲は一変した。網の目状の血管は盛り上がり、浮き上がると、いくつかの肉塊に形を変えた。絨毛じゅうもうの間には幾つもの縦切れ目が出来上がった。彼はその切れ目の一つの中に流れ込んだ。そこは暖かくぬめった小さな袋だった。その壁に彼は寄りかかると真っ赤な血が彼に浴びせかけられた。彼は全身に力がみなぎるのを覚えた。そして血の流れる拍動音はくどうおん摩擦音まさつおんが彼を包んだ。それはあらゆる音の元響げんきょうだった。


 彼は全身に血を浴びながら元響げんきょうを聴いて半永久の時を過ごした。だが、流転るてん律動りつどうがその存在を襲い始めた。彼が過ごすその空間で大きな変化が起こった。絨毛じゅうもうは少しずつ抜け始めた。真っ赤な血は茶色の液体に代わり始めた。彼は居心地の悪さを感じ始めた。その存在は大きく律動し彼を締め付けさいなみみ始めた。肌触りの良い絨毛じゅうもうは鋭い針となり、力をみなぎらせる血液は不快な泥水となった。彼は体をよじってそこから飛び出た。元の筒の中では、律動と拍動はより激しかった。地謡のような鳴響と、咆哮のような振動が彼を奥へ奥へと流した。その先には強い光が彼を迎えていた。その光は刃物のように鋭く、氷のように冷たかった。彼は生暖かいぬめりを恋しがりながら、その方向へ流れていった。

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