第46話 土から土へ

 結局ヨハネは、彼を取り上げた産婆と共に暮らした。

 ヨハネは朝、借り畑の地主の台所で残り物を貰ってくると、それを産婆と分けて食べた。その後、母が残した借り畑を耕すと、釣り竿を担いで釣りに行った。釣果はまったくない日もあれば二三匹釣れる日もあった。そしてもう一度地主の台所に行くと、残り物を持って産婆の元に帰った。これが彼の一日になった。

 十歳のヨハネには、借り畑で作物を得る事は難しかった。十歳のヨハネがいくら鍬を振るっても砂の畑のうねは、砂に埋もれた。


 やがて彼の母親の墓石も、砂に埋もれた。


 ヨハネはそんな生活を続けた。

 彼は最悪の環境を跳ね返すように成長を続けた。

 背は伸び、手足は長くなった。小さな男の子だった彼は大人の男に育ちつつあった。髭が生え、胸の筋肉は盛り上がった。

 ワクワクの社会全体が彼の家庭だった。彼は釣りの腕を上げ、借り畑を耕し直して食い扶持を稼いだ。

 夏になると、西瓜畑で西瓜を食べた。彼がその皮を拳で割ると、真夏の光を浴びて温く暖められた西瓜の汁は、赤い血のようにヨハネの服に赤いシミを付けた。西瓜の果肉に齧りつき、赤い汁をすすりながら、ヨハネは想像した。この乾いた大地の下にはたくさんの地下茎が血管のように張り巡らされ、その血管はさらに大きな地下水脈に繋がっている、血液は時には真水、時には塩水、時には植物の樹液、そして人間の体液の形を採って地上に現れるのだと。


 安息日の前日には、ヨハネは宣教師の元へ通った。マール・デル・ノルテを望むその海岸には、小山のような巨石があり、その陰にピーノの流木で作られた粗末な教会があった。そこには三人の宣教師がいた。みな黒い胴着を着て、肩から黒いマントを羽織り、木製の十字架を首に掛けていた。彼らはヨハネに算術と聖書の言葉とアルファベットを教えた。文字の勉強は、自分の名前を砂の上に書く作業から始まり、聖書の言葉の暗唱で終わった。ヨハネはお祈りの言葉を意味も分からず丸暗記した。一番年嵩の宣教師が幼いヨハネに教えるその言葉は、不思議な律動を持っていた。ヨハネは詰まりながら、何度も繰り返してやっと暗唱した。彼は物覚えが良くも悪くもない平凡な生徒だった。そして、聖書の意味を取る勉強の方は彼の頭になじまなかった。ヨハネは宣教師の暗唱の後について、聖書の文句を多く暗記した。

 天地の創造から最初の人のアダムとイブの誕生、善悪と原罪の発生、それらはヨハネが母や産婆から聞いたワクワクたちの神話とは大きく異なっていた。しかしヨハネはそのような矛盾を意に介せず、脈絡のない質問で宣教師たちを困らせた。

 中でも特にヨハネの相手をしたのは、五十過ぎの年老いた宣教師だった。彼とヨハネは海辺の砂浜に座って話をした。


「宣教師さんたちはどこから来たの?」

「海の向こうの遠い遠い国からだよ。ヨハネ」

「おうちに帰りたくならないの?」

 その年老いた宣教師は、日焼けて皺の寄った顔を海風になぶらせながら、マール・デル・ノルテの海の彼方に視線をやった。

「私はもう年を取ってしまった。長い船旅には耐えられない。神が塵に息を吹き込んで人をお造りになったのだから、私の体はこの国の土に還るだろう」

 そう言うとその宣教師は足元の砂を愛おしそうに撫で回した。

「どうしてそんな遠いとこから来たの?」

「良い知らせを皆に伝えるためだよ。私たちは世界中に散らばってその土地の人々に洗礼を施している。そして正しい教えを守るよう教えている。そうすれば我らの父は永遠に私たちと共に居らして下さる。誰でも神の国に入れるのだよ」

「洗礼を受けなければ、神の国に入る事はできないの?」

「ああ、そうだ。人はみな水と靈によって生まれなければ、神の国に入り最高で最後の幸せの中で暮らせないのだよ。洗礼を受ける者は救われるのだよ」

「洗礼を受けなかった人はどうなるの?」

「神の国で生きる事はできない。神から永遠に離れ、至福の命を得られない」

「ぼくは?」

「お前はもう洗礼を受けている。安心しなさい。ヨハネ」

「ぼくのおかあさんは?」

「君のお母さんは洗礼を受けたのかな?」

「多分、受けてない」

「受けていなくても、信仰のために死ぬ者、教会と救世主を知らずに、心から神を求めその御心を果たそうと努める者は救われる」

「ふーん」

 ヨハネはしばらく爪の甘皮をいじっていたが、

「おかあさんと一緒じゃなきゃ、神の国には行けなくてもいいや」

 そう言って教会を飛び出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る