第44話 釣り竿と魚籠

 二人は急にさみしさを感じて肩を並べて家路に付いた。

 ヨハネはペテロに聞いた。

「ペテロはいろなとこに行ってみたい?」

「そりゃ、行ってみたいさ。いろんなとこ行っていろんなもの見て。ははっ」

「そうかな」

 幼いヨハネは、心の底から沸き起こった違和感をうまく言葉にできなかった。

「まあ、いいさ。おれたちはまだ、先の事を考えなくてもいいのさ」

「そうかな」

「そうだよ」


 夕日の赤い光線の中に白い砂が舞っていた。二人は何をするにも、考えるにも、まだ幼すぎた。



 次の日からヨハネは、釣りに熱中した。

 少しでも魚を釣って、食い扶持ぶちを稼ごうとした。河原に行っては、魚のいそうな場所を探し、たった一つの貴重な釣り針を無くさないように、慎重に釣りをした。餌は虫やミミズを使った。初めの数日はまったく釣れなかった。釣り針を失うのが怖くて川の深みに釣り糸を垂らせなかった。それを聞いたペテロは長い柄の付いたたも網を貸してくれた。

「魚と引っ張り合いをすると、糸が切れて釣り針を持っていかれちまうから。岸まで魚を引っ張ったら、無理をせずに網で救い上げるんだ」

 ペテロは先輩として言った。

 ヨハネの母は毎日のように朝早く釣りに行くヨハネを見ては、今日は畑を手伝いなさい、と言った。

「おかあさん、魚を釣れば二人で食べられるよ。いちばん大きな魚をおかあさんに上げる。楽しみにしててね」

 ヨハネはそう言うと小屋を飛び出していった。


 ある日の朝、ヨハネは良い釣り場を探して川や沼の間をさ迷い歩いた。ある沼で、岸辺から突き出た岩を見つけた。その岩に昇り、沼を見渡した。浅瀬が続き向こう岸がかすかに見え、水の流れがあまりなかった。


 ここなら釣り針を失わずに、魚が釣れるかもしれない、ヨハネはそう考えると、釣り針にミミズを付けて、岩の上から釣り糸を垂らした。しばらくして、ヨハネの釣り竿に程よい重みがかかった。針に魚が喰い付いたのだ。


 ヨハネの心臓は早鐘はやがねのように鳴った。初めて魚が釣れるかもしれない、ヨハネは心臓が軽く痛むほど集中して、針を取られないように、ゆっくりと釣り竿を引いた。やがて水面の下に鯉の姿が現れた。ヨハネは釣り竿と並ぶようにたもを突き出して、鯉を網の中に入れた。ゆっくりと網を水から挙げると、その鯉は狂ったように胴体をくねらせ、口とを動かして、空気の中で息をしようともがいていた。ヨハネは鯉をたもごと岩の上に上げると、鯉の口を見た。釣り針は呑み込まれていた。ペテロに習った通りに、彼は鯉の口の中に指を突っ込んで釣り針の軸を強くつまむと、一度奥に押し込んでから、ゆっくりと引き抜いた。

 

 釣り針は無事だった。大きな釣果ちょうかにヨハネは全身の血を熱くさせた。これでおかあさんが喜んでくれる、そう思いながら、水に付けたびくに鯉を入れた。そしてまた餌を付けて釣り針を沼に放り込んだ。


 次々と、鯉が釣り針に喰い付いた。ヨハネはその度に、同じ作業を繰り返して魚を釣り続けた。みな肘から手首ほどの大きさでで、びくの中で激しく暴れていた。ヨハネが気付くと周りは夕日で真っ赤に染まっていた。彼は自らびくを上げた。ずっしりとした重みが釣りの成果をヨハネに実感させた。彼は母に魚を見せようと家まで走った。



 夕日が玄関から小屋の中に差し込んでいた。炉には稗の粥が煮えていた。

「おかあさん! 魚を釣って来たよ。鯉を六匹!」

 入り口からは、囲炉裏の向こうにヨハネの母が、こちら側に背を向けて横になっている姿が見えた。薄い蒲団を被り、背中を温めるために、彼の母がよく取る寝姿だった。母が喜んでくれると思い込んでいたヨハネは、不貞腐ふてくされてを入り口の横に置いた。


 ヨハネは、最近の母が体のだるさを訴えて、横になる事が多いのを思い出した。今もそうなのだろうと思い、母を起こさないようにゆっくりと炉の側まで歩いた。粥が煮えすぎないように、燃えさしの薪を一本取り去った。そしてヨハネも母と同じように横になると、背中を炉に向けて体を温め始めた。

 ヨハネの母は、少しも動かずに同じ姿勢で横になっていた。枕を使わずに首を不自然に歪め続けていた。そのまま長い時間がたった。夜が更けてもヨハネの母は起きなかった。粥は冷え、たき火は消えた。


「ねえ、おかあさん、ご飯食べようよ。魚もあるよ」

 暗闇の中で、ヨハネは何度もせがんだが、彼の母は、ヨハネに背を向けたまま、首を歪めて横になったままだった。

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