第43話 行商の民、流浪の民

 そこに深紅しんくのマントの一団が、馬車の一つから走り出ると、リュートの韻律いんりつと横笛の旋律せんりつに合わせて踊り出した。腰をくねらせ足を踏み鳴らしながら、赤いマントの下から現れた顔は、なんと真っ白なお面だった。切れ長の目に鋭い角が二つ付いたそのお面は、速くなる韻律に合わせてくるくると回ると、次はマントを投げ捨て、お面を取った。

 なんと真っ赤な絵の具を塗った男の顔が現れた。

 見物人たちはあっけに取られてしばらく黙り込んだ直後、拍手と笑い声を爆発させた。その後も同じ衣装の男が二人、四人と続けて馬車から飛び出して、赤いマントを振りかざしながら踊り出した。人々はますます興奮して歓声を上げた。


 そんな熱狂の中、ヨハネは母と手を繋いで人波に流されて漂っていた。

「おかあさん、もっと前に行っていいかな」

 ヨハネが尋ねると、母は膨らんだ腹をさすりながら、おかあさんは体がだるいから、先に家に帰っているわ、迷子になったら、ひとりで帰れるわね、と言った。

「うん」

 そう言ってヨハネは人ごみの最前線まで人波の間に体をねじ込みながら進んでいった。


 ヨハネは馬車の屋台を見て歩いた。

 葡萄酒や装飾品には興味はなかった。

 彼にとっての一番はなんといっても釣り針と、深紅のマントを着て踊った不思議な人々だった。屋台の間を歩き回るうちに、彼は釣り具の馬車屋台を見つけた。そこには黒く塗った釣り竿や半透明のテグス、そして様々な種類の釣り針が並べてあった。釣り針の種類の多さにヨハネは驚いた。様々な釣り針が麻布を張った板に細い糸で縛りつけられて展示してあった。その種類の多さにヨハネは驚いた。太い鉄で造られた大きな釣り糸、フトコロが異常に狭く細長い釣り糸、針が三つも四つも付いた釣り針、それらの魅惑的な曲線や、釣り針たちが放つ銀、黒、灰色の鈍い光は彼の心を捉えて離さなかった。


 その馬車屋台の亭主は四十がらみの痩せた男だった。ヨハネが夢中になって釣り針を凝視している様子を見て尋ねた。

「ぼうず。釣りが好きなのか?」

「うん! 大好きだよ。釣りも好きだけど、道具の準備をしている時が一番楽しい!」

「そうか。そうか」

その男は目を細めてヨハネを愛おしそうに見た。

「ぼうずは、釣り針と交換する物を持っているのかい?」

「交換するもの?」

「お金だよ」

「……もってない。お金もってない」

「そうか、なら干し肉や真珠でもいいぞ。このあたりの貝からは真珠が出るそうじゃないか」

「……もってない」

その男はしばらく目を細めてヨハネを見ていたが、やがて深いため息をついて言った。

「ぼうず。おまえさんには目の毒かもしれない。大人になって稼げるよういなったら買いに来な」

 ヨハネはその男の顔を不思議な生き物でも見るように見上げたが、自分へ向けられた蔑視交じりの同情心に気付き、顔を赤くして下を向いた。そして羞恥心を隠すように話題を変えた。

「あの赤いマントを着て踊っていたのはおじさん?」

「違うよ。あれは俺じゃないよ」

「じゃあ、おじさんの友達?」

「違う。友達じゃない」

「でも、おじさんの仲間でしょ?」

「だがら、違うって言ってるだろ」


 その男の大声に驚いて、ヨハネは一歩下がった。


 しばらくの間、固い沈黙が二人の間にわだかまった。


「ごめん、ごめん、あの人たちはおじさんたちとは違うんだよ。後ろから勝手について来るんだ。あれたちの楽器や踊りがあると盛り上がる事もあるからね。特に追っ払いもしないんだ。それだけだよ。違うんだよ。あの人たちとは違うんだ。」

 その男は笑顔で声を震わせながら早口でしゃべった。彼は冷静さを装っていたが、唇を細かく震わせていた。

 ヨハネはさっきまで優しかったその男の豹変に恐怖してしばらく固まったように立ち尽くしていたが、やがて走り出した。


 なぜあの男はあんなに怒ったのだろう、そう思いながらヨハネは走り続けた。走りながら彼の体は細かく震えた。それは人間の敵意に生で触れた恐怖だった。ヨハネはそのまま走り続けた。そしていつか石合戦で勝ち取った河原までたどり着いた。

 そこには馬借たちの屋台馬車とは異なった型の馬車が何台も不規則に停められていた。その馬車は屋根が付けられ、御者台の後ろには小さな扉があった。その周りには、フケだらけ髪を振り乱した子供たちが裸で走り回っていた。一人の中年女が蕃服ばんぷくの前をはだけて、胸と下半身を半分晒したまま、黒い縁取りの化粧をした目でその子供たちをじっとりと見ていた。馬車と馬車の間には、何本も紐が渡され、洗濯物が干されていた。口髭の男たちはだらしなく馬車や河原の大石に寄りかかってリュートをつま弾いていた。

「ペテロ!」

 ヨハネはリュートを弾く男の近くにペテロを見つけた。

「あのマントを着て踊っていた人を知らない?」

「あそこにいるよ」


 その男は川ふちで中腰になり、上半身裸で、ざぶざぶと川の水で顔を洗っていた。そして顔を洗い終わると、筋肉で引き締まった体を水で光らせながら、体を反らせて髪を濡らす水を払った。その足元には、赤いマントと白いお面が置いてあった。あの人だ、とヨハネは走り寄った。ペテロも続いた。

「おじさん!」

 ヨハネは大きな声で彼に声を掛けた。

「おっ、なんだ?」

 彼は振り向いた。その顔は浅黒く、大きな茶色い目が輝いていた。耳にはいくつもの、小さな鉄の輪が付けられ、胸には花と鳥をあしらった入れ墨がくろぐろと彫られていた。年の頃は三十前だろうか。長い黒髪はビーズを編みこんだ三つ編みでまとめられていた。彼はあご髭をしごきながら腰に両手を当て、ヨハネとペテロを見下ろした。

「おじさん! さっきの踊りすごかった!」

「おっ、嬉しいねえ。このへんの子かい?」

「うん。僕たちにもあの踊り教えてよ!」

「あはは、急にはムリだな。あんなふうに踊るには何年もかかるよ。俺は子供の頃から踊ってる。踊って歌って、国中を回ってるのさ」

「おじさんの家はどこなの? この近く?」

「今はここが家。俺たちは一つ所に留まらない。いつも旅をしている」

そう言うと男は近くの岩に立て掛けてあったリュートを手に取ると、高い声で歌い出した。


生まれた場所は、馬車の中

育った所も、馬車の中

何処から来たのと、人問わば

森と道とが、わが故郷

たき火と楽器が、わがこころ

親は誰だと、ひと問わば

森と林が、我らの祖先

何処へ行くかと、ひと問わば

森と林が、我らの墓場


いつもいつも腹ペコで

いつもいつも蔑すまれ

こころが冷たくなったなら


森へ帰ろう、わが

森へ帰ろう、わが


帰っておいで、深い森に、

走っておいで、白い林に


たき火が我らを待っている、緑の女神が待っている

木の根の穴が、我らのおん母

森のかすみが、我らの垂乳根


深き緑が、我らの先祖

我々だけの、こころの先祖


 ヨハネは呆けたように聞き入っていた。その不思議な韻律いんりつに心を奪われた。この人たちは流れていくんだ、と幼ごころに悟った。どこにも居付かず流れていくんだ、その 旅路の過酷さを想像して、ヨハネは黙り込んだ。

 一方で、ペテロはひどく興奮して言った。

「いいなあ、いろんな所に行くんだね。いろんなものを見れるんだね。おれも行きたいよ」

 男は笑顔でリュートを地面に置いて言った。

「辛いぞ。渡り歩くのは」

「平気さ! ぼくも連れて行ってよ!」

 ははは、と平らな声で笑うと彼は一瞬厳しい顔をしてそのまま馬車の中に入ってしまった。ヨハネとペテロは取り残された。夕日が河原を赤く染めはじめた。馬車の周りでは皆がたき火を始めた。馬たちはくびきを外され、川の水を飲み始めていた。その首筋と目の周りには、丸くて大きなダニが幾つも喰らいついていた。

 丸く血ぶくれしたダニはまるで魚のうろこのように馬の皮膚にがっしりと齧りついていた。

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