第34話 狂気の夕日

 ヨハネの母の厳しい生活は続いた。借り畑にはひえが育ち実を付けたが、四割を地主の家に納めなければならなかった。成長する赤子にはもっと多くの食べ物が必要になるはずだった。彼女は他の農家に雇われ人として働いた。赤子を背負いながらの労働である。その仕事は限られた。その見返りにわずかばかりの食べ物を貰った。そんな生活は彼女の心と体を徐々に蝕んでいった。疲れのせいか、熱と咳が止まらず、首と脇の下が腫れて痛んだ。


 ある日の夕方、彼女は畑から帰り、小屋に入ると寝具の上に倒れ込んだ。手の豆は潰れて血が流れ、腰は曲がり背骨がきしんだ。


 ちょうど開け放した入り口から夕日が小屋の中に差し込んだ。それは真っ赤な夕日だった。それは寝具も鍋も桶も柱も壁も赤より赤い赤に染めた。その中で赤子は大きな声で泣き出した。耳障りな音が彼女の耳から頭へ突き刺さった。極度の疲労のせいで彼女の心は弾力を失った皮膚のように鈍く固くなっていた。ああ、また食事を作らなければならない、彼女はそう思うと、ひえの入った壺と、砂出しのために桶の水に浸してある貝に目をやった。


 もう限界だった。


 彼女は起き上がり、膝で歩きながら赤子の側に寄った。醜く歪んだ顔で泣き続けるその生き物はさらに大きな声で泣き続けた。彼女は赤子をまたいで膝立ちになると、荒れた両手をその首に掛けた。涙を流しながら体を屈めて、自分の顔を赤子の顔にくっつけると、少しずつ、少しずつ両手に力を入れた。赤子の顔は夕日で真っ赤に染まっていた。その首を絞める手も真っ赤に染まっていた。彼女は泣いていた。彼女はいま正気では無かった。彼女の涙とよだれは赤子の顔にぽたぽたと滴り落ちた。


 その瞬間、狂気の赤い光を放っていた夕日が雲で陰った。そして小屋の中から赤い光が消え、いつもの夕暮れ時の白くて薄い光に代わった。その光の下では、赤子の顔は真っ青になっていた。彼女は慌てて手を離した。


 赤子は数回せきをするとまた呼吸を始めた。そして前より一層大きな声で泣きだした。彼女は赤子の胴体に自分の顔を埋めると「ごめんね……ごめんね……」とうめきながら声を立てずに泣き続けた。

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