第33話 無原罪の御宿り
ヨハネの母は、平凡なワクワクの娘だった。
彼女が十五歳の年に飢饉があった。
ヨハネの母には両親も兄弟もいなかった。後ろ盾となる親族はみな死んでしまったか、遠い土地に奉公に行っているか、奴隷として売られていた。彼女に残された財産はピーノの木材で作られた小屋だけだった。彼女は乳飲み子のヨハネを負ぶると、隣の家から借り畑をして、
また西風が吹き砂で畑を埋めた。
ヨハネの母は泣いた。
隣家の者はこの畑が使い物にならないと知った上で、彼女に貸したのだ。それでも彼女は
それは骨がすり減り背中が歪むほどきつい労働だった。それでも彼女はひしゃくを使って、畑の畝に沿って丁寧に水を撒いた。撒いた水は、ほんの少しの湿り気を彼女の畑に残し、砂がちの土に吸い込まれ消えていった。農作業の間にヨハネが腹を空かせて泣くと、彼女は胸元をはだけて乳房をヨハネの口に押し付けた。だが彼女の乳房はヨハネが満足するほどの乳を分泌しなかった。彼女はヨハネを取り上げてくれた産婆に相談した。
産婆は言った。
「そりゃね、おっかさんがろくなもん食べてなきゃ、乳も出やしないよ。あんた毎日どんなもの食べてるの。
そんな
産婆はただでさえひどい猫背をよりいっそう曲げて言った。
「そう言うことなら仕方ない。近くの川淵には底が砂になっている所がある。そこには大きな貝が埋まっている。貝殻に深い溝が付いた大きな貝だよ。うまくはないが肉は多い。それを採って食べるといい。でもね、この貝は本当に困った時にだけお食べなさい。あの川には川神様がいる。お怒りになると、面倒が起こるかもしれないからね」
ヨハネの母にとっては今が『本当に困った時』だった。彼女はつらい畑仕事が終わった後、ザルを片手に長い道のりを川まで歩いた。川にたどり着くには村を横切らなければならなかった。
彼女は首に掛けたお守り袋を右手で握り締めながら、速足で歩いた。
夕日が当たるはずのワクワクの村は熱い雲のせいでぼんやりと薄暗く、西から強い風が吹き白い砂が大気に満ちていた。そこの人々は、宣教師たちが『
たとえどんな事情があったとしても、外の土地で子を孕んだ女は、地元の人々には快く思われていないと彼女はよく知っていた。
井戸の周りに集まっていた数人の男女はヨハネの母を指さして何か叫んでいた。幸い西風がその言葉を掻き消し彼女の耳にその言葉は届かなかったが、彼らが投げた小石までは吹き飛ばしてくれなかった。ヨハネの母がヨハネを庇って体をねじったが、小石は彼女の額に当たった。頭蓋骨が振動して意識は薄れ、目が霞んだ。そして赤い血が前髪の中から一筋流れ落ちると左目の横を通って首まで流れた。彼女は血も拭わず村を走り抜けた。小さなヨハネを守りながら川まで走った。急に体を揺らされた赤子は泣き出した。彼女は川のほとりにしゃがみ込むと、ヨハネを草の上に寝かせて川の水を覗き込んだ。薄暗い夕日の中では水に映った自分の顔を見られなかったが、肩を細かく震わせ、涙をぽろぽろと川面に落とした。
しばらくじっととしていた彼女は、川の水を両手ですくい、ざぶざぶと顔を洗った。涙と血を洗い流すと、服の裾をまくりあげて水の中に入り、川底の砂を両手でさぐった。彼女の手にはゴツゴツとした丸い物が当たった。水の中から救い上げると、黒い筋を付けた二枚貝だった。彼女は川面に桶を浮かべてその貝を夢中で採り続けた。面白いように収穫があった。十分な量を拾うと、彼女は虫刺されの跡を足に幾つか付けて、川から上がった。
ヨハネの母はその貝を桶に入れて川の水でこすり洗いをした。ガラガラと貝殻がぶつかり大きな音を立てた。鍋に水と塩を入れてその貝を煮た。生臭さが小屋の中に立ち込めたが、その匂いはヨハネの母に、少しだけ豊かになったような錯覚をもたらした。ヨハネの母の乳不足は解消された。彼女の乳房は赤子ひとりを育てるに足りる乳を分泌した。赤子はそれを飲み下し、徐々に大きくなり続けた。
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