第6話 インフレーション

 この国の公式通貨「ジェン」は副王の銀行によって発行されていた。硬貨はなく紙幣のみで、かつては数種類の紙幣が使用されていた。今は最高額面の十万ジェン札が主に流通していた。ジェンは発行された当初は信用され高い価値もあったが、副王の権威失墜に比例して、ジェン紙幣の価値も落ち続け、それで買い物をしようとすれば、ひもで縛ったジェン紙幣を手押し車や馬車で運ばなければならないような事態になってしまった。副王の役人たちはジェンの価値を守ろうとあらゆる手を打ったが、弱体化の一途をたどる副王の新政策を真に受ける者は少なく、この国の貨幣制度は混乱の極みにあった。


 市場の計理官の男は神経質そうに椅子のひじ掛けをこつこつ爪で叩きながら言った。

「トマスさん、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか。ここ五年ほど、この国のあちこちの軍閥が妙な軍用手表を出しているようですね。それに各地の地付きの氏族たちがしきりに怪しげな手形を切っているようでもあります。私も現物を幾つか見たのですが、信用してもいいものかどうか。決済の方法として私どもの元へ持ち込まれた時、どうしていいやら考えている所なのです。東の方から流れてくる商人がたまにどこかの軍閥が出した軍用手表を持ち込む場合がありますし、反対に西の島や南では大きな氏族が切った手形が散見されるのです。数年前までは薄っぺらい紙に手書きの署名と判子を押しただけの紙屑のような代物だったので相手にしなかったのですが、最近は上質の紙に手の込んだ印刷がされており、透かしまで入っているようでしてね。副王の出す紙幣よりも立派なものもあるのですよ。これからどうしたらいいのか毎日考えているのですよ」


 すると横から女競売人が彼に低い声で囁いた。

「『考えている』なんて見栄を張ってないで素直に言いなさいよ。『教えて下さい』ってさ。すみませんね、トマス様、この人は見栄っ張りで人に教えを乞うことを嫌がるんですよ。中途半端な矜持は捨ててしまえと日ごろ言ってるんですがね。どうか教えてやって下さいませんか」


 トマスは『この人』という言葉を聞いて先ほどの推理が正しいと確信したが、それをおくびにも出さなかった。

「さあ、どうだろう。私も軍事手表や手形の噂を耳にするが、あまり良い話ではないね。軍閥は離合集散を繰り返しているし、氏族といっても田舎の山賊が馬小屋で酒盛りをしているようなのだから、信用するに足らないと思うね。印刷したものと言ってもそれを印刷した機械はどこからの略奪品ではないだろうか。そう言えば西の島近くで印刷機を輸送する船が海賊の略奪を受けたとの噂を耳にしたな」


 計理官の男は視線を女競売人にやってからすぐにトマスに戻した。一間おいてから女競売人が答えた。

「まあ、お耳が早いのでございますね。あなた様ほどの仲買人が仰るならそうなのでございましょう。これで安心して取引ができますわね。いや、われわれも東西の噂話をそれは熱心に集めているのでございますよ。それでもいい加減な話も多ございましょう。それで判断がつきかねているのでございますよ。さあ」

 そう言うと女競売人は立ち上がって言った。

「四人でこの煉瓦の束を数えてしまいましょう。面倒な仕事はさっさと済ませてしまうに限りますわよ」

 四人はまたうんざりした様子で三千三百枚の紙の束を眺めた。

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