第16話

【じゅう ご】



まるであの日と逆だった。

自分ひとりの世界に浸るために深夜の皆橋駅に通う十七歳のハツの元に、突如として現れて掻き回した左記子。 今度は左記子の方がそうされる番なのらしかった。

すん、と鼻をすすりながらも左記子の目は彼女に釘付けのままだった。

「泣いてんの」

彼女がかさねてそう言って顔を覗き込もうとして来るので、左記子は慌てて首を横に振った。そう、と軽く言った彼女は左記子の赤い目を深く追及しないでくれた。

そのままどさりと大きなリュックを傍らに置き、洗練されたショートカットの髪裾を揺らして隣に腰掛ける。縮こまった左記子は小さくなってしばらくは身動き一つ取れなかった。

やがて正面に目を上げると、対面するガラス越しにぴたりと目が合った。

「梅渓さん──だよね」

「そう」

彼女はなんでもないことのように肯定する。

「久しぶり」

少し大人びたけれど雰囲気はハツとしか言いようがなく、胸が締め付けられるような懐かしさをおぼえた。最後に会ったのは数日前だけれど、もう二度と会えないと思っていたから。

「ちょっと変わったね」

「久貝さんは全然変わってないね」

そう、変わっていない、1ミリも。目は赤いけれど。

「梅渓さん、幾つになった? 」

ハツはちらりと左記子を横目で見る。

「二十五」

「そうなんだ」

二十五歳の梅渓ハツ。ハツの時間ではあれから七年もの歳月が経ったのか。普通の生き方をしていれば、左記子もこのくらいの外見になっていたはずだ。けれども実際に窓ガラスに映る姿の左記子は少女にしか見えない。隣のハツはすっかり女性だというのに。

「ここは全然変わらないね。駅も、電車も、久貝さんも。私だけ浦島太郎みたいになってる」

ハツは天井を見上げてしみじみ呟く。それは逆だ。太郎は左記子の方だ。

「高校を卒業したあと、東京の美大に行って。そのままそこでフリーの写真家になったの」

だからいつも持ち歩いてる、ハツは手に持ったカメラと思えないほどのごついカメラを掲げる。

「それで久々に帰ってきたのが今日」

「だからこの大荷物なの? 」

「そうかもね」

ハツは噛み合っているのかいないのかよく分からない返答をする。そして目を細める。ひとりで電車に乗ってきた十七のハツを左記子が覗き見た、あの日のように。すべての警戒を解いて、そしてやがて目を瞑る。全身全霊で何かに集中しようするようにしばらくじっとそうしていた。左記子が隣にいるにも関わらず、そうしてくれている。

電車は緩やかな振動を繰り返す。進路はあのときと同じ。海のある終点に向かって進む。

「さすがに今日は行かないよね。海」

ハツがまるで昨日の続きのようにごく自然に左記子に問うた。

「え」

あの時ハツと入った海。“左記子ちゃん”を置いてきた夜の海。想像よりとろみのある海水の感触と柔らかで実体のない海の砂と。そして、正体の分からない何かに引き込まれた。

「海、入った時さ。久貝さんと二人で。 本当は、死ぬかもと思った」

「うん」

そう。

海の深みに潜り込んで海水に満たされて。けれど、気付いたら二人して浜辺に打ち上げられていたのだった。

「でも死ななかったね」

ハツは小さく笑う。どうして溺れずに戻って来れたのか、今でも理由は確かでない。夜のせいだと、思うほかない。

「死ななかったけど、多分あのときから何かが確実に変わったんだと思う」

それはどういう意味、と言おうとしたら電車が大きく軋んで終点の前で停車した。

あのドア。あそこから、十七歳のハツと出て行った。内と外と、ほんの数センチの隔たりしかない。それでも、あの扉ひとつ向こうは外の世界。

ハツはなにも言わずに見えもしない外の海をまっすぐ見据えていた。左記子も同じように黙っているうちに電車は運転を再開しだした。

「──驚かないの」

今更だと思いながら尋ねてみる。

「梅渓さん、気付いてるでしょ? 」

「なにが」

「この私鉄が、私が普通じゃないって、気付いてるでしょ」

ハツが左記子の方に頭をくるりと振り向ける。彼女は今晩ここに来て左記子の顔を認めた途端、やっぱり、と呟いた。何かを承知の上で来たに違いないと左記子は踏んでいた。

「うん」

気付いてるし、驚いたよ──何の起伏もない声音でハツは続ける。

「怖くないの」

至って真面目に発言したのに、彼女は口端を上げて笑いを漏らした。

「前もそんなこと言った」

「よく──覚えてるね」

「怖くないよ」

きっぱりとハツは言い放ち、久貝さんだからと加えた。

「海に入った日、あの後皆橋駅に戻って道で別れる時に私になんて叫んだか覚えてる? 」

「そんなことした? 」

「した」

「私、何て言った? 」

「“生きるのに卑屈になっちゃ駄目だよ!”って、大声で」

言いながら彼女はくつくつ笑う。左記子はそんなことを叫んだろうか。実際、あの時はハツに二度と会えないかも知れないと思っていた切羽詰まった状況で、何かを言わなければと焦っていたのも確かだけれど。

生きるのに卑屈になっちゃ駄目。

最後に叫んだその言葉は、たぶんハツに向けたのと同時に左記子自身にも言い聞かせていた言葉だったのだろう。七年経つというのに、本当にハツは左記子の言葉ひとつひとつをよく記憶している。

「むかついた。だけど」

それが多分、嬉しかったんだよね──ハツはカメラを脇に置き、脚で肘を支えて頬杖をつく。

「うん、嬉しかった」

「そうなの? 」

「本音だって思ったから。その時は気付かなくて時間がかかったけど、言われたことは全部当たってて、久貝さん、見抜いてたんだって。あの頃の私は何かを発散したいのにどうすれば良いか分からなくて、捻くれてて、卑屈になってた。そういう気持ちを持て余して夜の駅に通ってた。それを久貝さんが言葉として自覚させてくれたから。ああいうのを友達って言うのかもしれないって。 そう思った」

友達。

『左記子』の友達。

「あの夏の夜の電車と、夜の海と、叫んでる久貝さんと。 今振り返ってみるとあれが私の青春だったんだって。あるはずのない皆橋駅の無料開放にまつわる体験が、私の青春なんだって」

だから、とハツは続ける。

「だから怖くない」

ハツは深夜の皆橋駅の無料開放が存在しないということを今日の昼間、駅員から直接聞いたのだそうだ。そこで初めて自分の体験した一連の出来事が普通ではなかったことに気が付いたのだという。

「でも納得できないよね。鮮明に記憶に残ってるんだから。あの高校二年生の夏休みに私が体験したことは何だったんだってね。そうしたら悔しくなって」

「わざわざ確かめる為に、もう一度深夜に来たの? 」

「そう」

「電車が来るかも分からないのに? 」

「多分、来るだろうと思ってた」

ハツの揺るぎない返答を不思議に思う。彼女はなぜそんなに動じないのだろう。

「どうして」

「夜だから」

胸が、きゅっと窄まった。

──夜には力があるんだよ。

思えば左記子たちの繋がりは初めから夜を介して奇妙な捩れによって成り立っている。却ってそれが左記子とハツらしいことのように思えた。そうだ。最初から捻れているのなら、今更取り繕って何になるだろう。

「──この私鉄はね、タイムトラベルをしてるんだって」

左記子が切り出すと、ハツは頬杖をやめてゆっくり起き直り、眉間に力を込めた顔でこちらを見た。

「この私鉄は時間の奥を走っているんだって、そう言ってた」

「奥? 」

「そう」

「言ってたって、誰が」

「遠藤さん」

想像通りハツは誰、という顔をした。左記子は思わず笑う。それからこれまでに体験し見聞きしたことを残らず話していった。左記子がここで働くようになった経緯。仕事内容。遠藤の研究とその成果であるATTのこと。左記子自身がよく理解していない時間の概念については、遠藤が説明したことをそのまま話した。左記子が遠藤から聞かされたときと違って、話した内容にさして驚きもせず、ハツがすんなり受け入れている様子なのが意外だった。

「──時間の奥の空間に長く居すぎると“薄くなる”って遠藤さんは言うの」

「薄くなる? 」

「つまり本来の時間から遠くなるとか、認識されなくなるって事らしいんだけど。その代わり奥の時間の法則に支配されるようになるんだ。奥の時間の法則では見えているものは成長も劣化もしない。だから私の外見は高校を卒業した十八の時のままなの」

「ああ、だから」

ハツは溜め息をついて納得し、そう──と呟いた後、

「所属出来るのはどちらかってわけ。そして久貝さんはその図の赤い線──奥の時間の法則の側にいるってことだよね。そしてそれは表の時間の視点から見るなら“薄くなる”と表現される現象だと」

ハツの聡い理解力に、左記子は圧倒されて頷く。

「じゃあ、トレーシングペーパーみたいな感じってこと? 」

「なに、トレーシングペーパーって」

「あるでしょ、そういう紙。トレースするために薄く透けてて半透明な紙。たとえば──」

トレーシングペーパーが二枚あるとするでしょう、ハツは説明し始める。

「一枚目にA、二枚目にBって鉛筆で書くとするよね。その二枚を重ねると、紙が薄いからどっちも同じ紙の上に書いてある記号に見える訳。AからはBが見えるしBからはAが見える。お互いそれほど違和感もなく認識出来ているんだけど、所属しているところ──書かれている紙はまったく違う。重なっている紙の上を消しゴムが掠ったとしても、消える記号は上に重ねた紙の記号だけ。下の紙は全く影響を受けない。そしてもし、重なっている二枚が引き離されたとしたら」

お互いがお互いにとって“薄くなる”──ハツは左記子の目を見つめた。

「表の時間から薄くなるっていうのも、多分そういうことじゃない」

圧倒された。左記子にとって長らく謎だった遠藤の表現を、ハツがこうもあっさり把握するとは思いもしなかった。

「──私だけで考えてたら、多分ずっと分かんなかった」

ありがとうと言うとハツは何でと笑った。

「でも、そう。そうやってずっと久貝さんは奥の時間を旅してきたんだ。昼は車内販売をして、あとはひたすら景色を見て。高校生の私と接触して。そして永遠に少女のまま 」

そういうの、ちょっと羨ましい、ハツがあまりにも簡単にそんな感想を言うので思わず左記子は目を伏せた。

「私には帰る場所がないから。だから出来ただけ」

そう、とハツは返事してそれきり口を噤んだ。


ロングシートの隣り合わせに腰掛けて、ハツが十七歳だった頃みたいに二人して黙って電車の振動をしばらく聞いていた。けれど、今のハツは十七歳ではないし、左記子も“左記子ちゃん”ではない。だからあの時と同じではない。人は否応なく変わる。たとえ外見の変化がないとしても。

変わらないのは、この列車と、夜と。

「──隣町銀河」

自然と言葉がこぼれた。

「なに?」

「この景色に、憧れたの。この町を飛び出したくて電車に乗って、そしたら真っ暗になった夜の町に灯りががきらきら光ってて。あんまり綺麗で悔しくて羨ましくて。でも憧れた。“隣町銀河”って名前つけて。梅渓さんに羨ましがられるような事じゃないの。私、多分取り憑かれたんだ。隣町銀河に取り憑かれた」

「そう」

隣町銀河を突っ切って電車は進む。この光のように邪心なく美しくなれたなら。美しさだけを振りまいて、余裕のある笑みを湛えて生きていけたなら。でも実際の左記子ときたらどうだ。

「ほとほと自分が嫌になったの。私のこと、誰も知らない所へ行きたかった。だって私、どこもかしこも作り物だったんだもん。かわいくて優しくて物分かりのいい私しか人に見せなかったんだもん。隣町銀河を見てたら、綺麗なものにだけ触れて生活できたらどんなに良いかって思って、だから次の日から毎日毎日仕事もしないで電車だけに乗って生活してた。笑っちゃうでしょ。みんな進学とか就職とか新しいことに前向きに取り組んでいるときに、私、そんなことしてたの」

どうしたのだろう。抑制がきかない。“左記子ちゃん”が不在だからだろうか。気持ちも発言もうまくコントロールできない。

「なりたいものに何にもなれない。誰の期待にも添えないし愛されない。私、大っ嫌い。昔から自分が大っ嫌いなの。だからここに逃げた。人としての資格も失って、ここに住み着く妖怪みたいになって、一生少女のまま電車で過ごすんだ」

馬鹿なことを言っていると自分でも思った。折角左記子のことを友達と言ってくれたハツも、このみっともない姿に呆れているに違いない。でも、もういい。もう疲れた。色々考えることすら嫌になってしまった。

ハツはただただ無言だった。無言で、目を丸くして左記子を見つめていた。ハツの目に生身の左記子はどんなに醜く見えているだろう。

「──ごめんね」

ごめん。梅渓さん。折角会いに来てくれたのに、左記子がこんなで。もう電車はまもなく皆橋駅に到着する頃だった。ハツとは再びこの駅で別れて、次回会える機会があるかどうかすら分からない。いや、ハツは会いに来ようとは思わないだろう。

「梅渓さんは皆橋駅で降りて。じゃないと、うまく戻れないらしいから」

緩やかに速度を落として、電車がホームに入っていく。

「もう、私に構わないで。かわいくも優しくもなくなった私に構わないで、梅渓さんはちゃんとした人生を送って」

──嘘つき。嘘つき。

欲しくて堪らなかった『友達』を手に入れられそうなところで翻って、今度はわざと嫌われて突き放そうとするのね。本当の左記子はなんてあまのじゃくなんだろう。自分のそんな一面すら知らなかった。


完全に電車が停止したのに、梅渓ハツは立ち上がる気配すらなかった。

降りないの、と促そうと彼女の方を向いたら、ハツは既に左記子を見ていた。突き入るほどにまっすぐな視線が刺さる。そして言った。

「さっきも、それが理由で泣いてたの」

唾を飲み込む。ほとんど睨むような強さで、左記子はハツの目を見つめ返した。


降りないよ、そのつもりで来たから──、ハツがそう繋げる頃には電車は運転を再開し、左記子は再び子供のように泣きじゃくっていた。

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