第17話
【じゅう ろく】
泣くのは似ている。
何に似ているのだろうとそんなことを思う。昔よく経験した何かに似ている。しかもちょっとした可愛らしい涙では感じられない、呻いて叫んで暴れ出しそうなくらいに感情がうねる時にだけあらわれる感覚なのである。
──なんで人前で泣くかな。
しかもよりによってハツの前で。恥ずかしい。恥ずかしいのに止められない。だってあんなことを言うから。
──“さっきも、それが理由で泣いてたの?”
瞬間、怪我をした患部に直に触れられるような衝撃を受けた。ごまかしが効かない痛み。だから平気でいられない。顔が歪む。
本当に思ってること、初めて聞いた──低く呟くようにハツは言って、かわいさを損ないながら泣く左記子から目を逸らしもしなかった。おさなごのような泣き方をする左記子も左記子だが、それを大人げなく至近距離でしげしげと眺めるハツもハツだ。
「いたいの? 」
小さな子供に対するようなことばをハツは使う。
「痛い──」
「いつから? 」
「子供の、頃から」
「じゃあ高校生の頃も? 」
尋ねられるままに答え頷く。さながら病院の診察室でなされるような問答をハツは繰り広げる。これは私が純粋に疑問なんだけど──そうハツは前置きして、
「ねえ、なんでそもそも自分が嫌いなの? 」
と顔を近づけた。
「どうしてわざわざ“かわいい自分”とか“優しい自分”を作ろうとするの? 久貝さんのかわいいとか優しいの定義ってなに? 久貝さんは充分恵まれてるのに」
「恵まれてるって? 」
肌がひりひりするのも構わず力に任せて目をこすりつつ左記子は訊き返す。
「そのままで充分かわいいのに」
そのままで充分。
──嘘。
周囲には電車の運行音と自分のしゃっくりあげる息遣いだけが聞こえる。
「性格も別に悪い訳でもないじゃない」
「嘘」
「なんでよ」
「嘘。 だって」
左記子は。
だってずっとかわいくないのがばれるのが怖くて、優しくないのがばれるのが怖くて、だから精一杯みんなのために無理をして。
──みんなって誰?
「私、高校生の頃、久貝さんのことかわいいと思ってたよ。性格は合わなそうだとは思ってたけど」
相変わらず左記子から目を逸らさずハツは続ける。
「なんて言うかお人形みたいで、ふわふわきらきらしてて。でも八方美人っていうか、自我が無さそうな子だなと思ってた。意見を求めても
ああ、そういう見方も出来るのか。高校時代の友人による左記子の評価は『ふんわりとした天然な子』。だけど、全ての人がそう捉える訳ではないのか。全ての人に好かれるのは不可能なのか。固く信じていたものが覆されていくようでなんだか混乱してくる。
「あのとき、私は絶対に自分を曲げたくなかった。媚びたり群れたりはしたくなかった。久貝さんはその対極にいるように見えたから絶対に関わることはないって」
だから正直びっくりした、ハツは少しだけ笑う。
「夏休みにこの電車で久貝さんに会ったとき。こういう所に来ること自体意外だったし、昼間学校で見る印象と違ってたから。でも、そっちの久貝さんが本物だったんだね。作ってたのは学校での方だった」
「……うん」
「でも、苦しくて痛かったんでしょ、“かわいくて優しい左記子ちゃん”は。なんでそこまでしたの。学校の友達がそんなに大事だった? それとも怖かった? 」
「違う── 」
友人を失う怖さもあるにはあった。でもそこまでじゃない。だって本当は友人ではなかったのだ。彼女達とは「左記子ちゃん教の信者」としての繋がりだけだったのだ。
「違う」
だったら何。左記子はどうしてこんなに“左記子ちゃん”に囚われた?
頭がぐらぐらして気持ちが悪い。目の奥が痛い。ハツは今左記子の中のとんでもなく底の方、核の部分に素手を突っ込んで直に触ろうとしている。
──怖い。
“左記子ちゃん”はもういない。
──怖い。
生身の左記子しかいない。
私、どうしよう。どこかで間違った?
「そしたら、それは誰? 久貝さんに一番最初に嘘の久貝さんを求めたのは誰」
──いやだ。
涙がいつまでも止まらない。それを拭う手さえ震えだす。
嫌だ、考えたくない。思い出したくない。なのに。
ハツによって掻き回されて、奥に仕舞っていたものが浮き上がってくる。
──“左記子ちゃんはかわいいから大好き”。
──“絶対このままのかわいい左記子ちゃんでいてね”。
あのひとは左記子に何気なくそう口にした。ごくたわいもない言葉として。
そうだ。 一番最初に。
「──お母さん…… 」
母だ。
母が左記子にそう言ったのだ。
意地悪をされた訳でも辛く当たられた訳でもなかった。むしろ母はいつでも左記子の肩を持った。味方でいてくれた。
けれどいつも、左記子が母を思うとき温かい安心感に包まれることは決してなかったように思う。代わりに感じていたのは緊張感だった。
「──おばあちゃんに育てられたの、私」
覆った手の隙間から漏れる声が震える。
「お母さんは月に一度帰ってくるか来ないかだった」
「うん」
思えば、あのひとはあまりにも自由だった。とことん自分の好きに生きていた。
「お母さんはいつも言うの。『左記子ちゃんはかわいい』って。帰って来る度言うの。でも本当は分かってた。お母さん、私の『かわいい』にしか興味なかった。着せ替え人形と変わらなかった」
──左記子ちゃん。左記子ちゃん。
猫なで声で呼ぶ母の声。
「お母さんが気に入っているのは『かわいい左記子ちゃん』。味方でいてくれるのは『かわいい左記子ちゃん』。帰って来る度怖かったの。今回もちゃんと私はまだお母さんの目にかわいく見えているのかなって」
必死だった。自分ではうまく認識できない自らの『かわいい』を模索して、実在しない『優しくてかわいい左記子ちゃん』を作り上げていく。それは母のために。母のためだけに。
「お母さんの期待に添いたかった。──けど、同時に嫌悪してたの」
あれは好きだとか嫌いだとかいう単純な問題ではなかった。だって、あのひとが認めてくれないと左記子は死んでしまいそうだったのだ。
なのに。
「だけどお母さんはあっさり死んじゃった! 」
不思議と笑えてきた。先に死んだのは母の方。左記子を散々振り回して、左記子にかわいさを求めるだけ求めて、挙げ句の果てに全てを放棄して勝ち逃げた。母のためだけに丹念に作り上げた『優しくてかわいい左記子ちゃん』は突如用途を失い、行き場がなくなった。力なくけらけらと、笑い声は空っぽの左記子の中でよく響く。
「ああ。確か、高校卒業の直前だったね」
ハツは思い起こすように静かに頷く。
「状況は断定できないって言われた。でも分かる。あれは絶対自殺だった。そういう人なの。お母さんはいつも好きに生きてて。自分のことしか考えてなくて。私、自分の父親が誰かも教えられていないんだよ。私のことも表面しか知らないの。表面が良かったら、かわいかったら、もうそれで良いの。それってどんな風に感じるか分かる? 人格を否定されているような気になるんだよ」
どうしてあんな酷いことができたのだろう。
──お母さん、左記子が何を好きなのか知ってた?
──何が得意なのか知ってた?
──どんな感性を持っていたか知ってた?
どうして、左記子そのものを好きになってくれないの。左記子はこんなに頑張ってたのに。
「おばあちゃんは? 」
おばあちゃんは久貝さんのこと気遣ってくれなかったの──、ハツの問いに左記子は首を振った。
「おばあちゃんは、良くしてくれたよ。良くしてくれた。でもお母さんじゃない。そう思ったら手放しで甘えられないもん。お母さんがあんなで、私もいるからいつまでたっても楽もできないでパートを続けてて。申し訳ないって思うじゃない」
自分を押し殺して、平気なふりをするしかないじゃない──左記子の言葉にハツはわずか顔を顰める。
「平気な訳なかった。本当は、違った。本当は自分なんか分かんなかった。お母さんが認めてくんなきゃ、誰が認めてくれるんだろう。他の人には認めてなんて言えない。苦しいことなんか誰にも言えない。悪くて」
それで左記子は考えるのを止めたのだ。思い出すのも極力止めた。だけど、“左記子ちゃん”は左記子に頑なにしがみついて離れなかった。
「お母さんが死んじゃったから、私はどうすればいいか分かんなくなったんだ」
どうすればいいか分からなくて、全部から逃げたくて。高校を卒業したら真っ先にこの町を出ようと思っていた。行くあてもなく電車に乗った。
そこから、銀河を見た。その虜になった。
「呪いだね」
ざらりとした声でハツが呟く。
「久貝さんが自我のないお人形になる呪い。お母さんがかけたんだ」
「呪い──」
「そう」
ああ。 これは母の呪いなのか。不思議と納得した。
いつからか涙は止まっていた。
泣くのは似ている。
──思い出した。
幼い頃、“左記子ちゃん”を取り繕う前の感覚に似ていたのだ。何が入って来るかも分からないのに無防備に心を全開にする感覚。
「海」
ハツが唐突にそんなことを嘯く。
「二人であそこに潜って、死にはしなかったけど確実に何かが変わったって言ったでしょ」
左記子は想像の中のあの日の海を思い見る。
「久貝さんも変わった」
変わっただろうか。相変わらず空のままの左記子のように思うけれど。
「解けてるよ。その呪い、ほとんど解けてる」
だって私に喋れたじゃない、ハツはあっさりそんなことを言う。
「今まで仕舞ってきたもの全部。言葉にもできなかったものを言葉にできて、どう表していいかわからなかった感情もちゃんと出せたじゃない」
自分の唇に触れる。そしてゆっくり頷く。
「話せた──」
左記子の空っぽになったその場所に、今度は何を詰めようか。
いつか、深く美しいもので充満するだろうか。
「電車ってさ、外側から見ると、すごく羨ましく思うんだよね。何でか魅力的に見える」
ハツは背中側の窓の縁を掴んでその向こうの景色を顧みる。
「きらきらしてて、あったかそうで」
安全に守られてるひとつの家みたいに見えない──などと言うので思わず口元が綻んだ。
「家? 」
「私もここで暮らすし、家でしょ」
「本気?」
ハツが皆橋駅を降りなかった時点で気になっていたけれど。
「本気に決まってる。その積りで今日ここに来た。だってずっと電車での暮らしに憧れてた。私も久貝さんと一緒に時間を無視した化け物になるんだ」
歌うような軽やかな口調でハツは続ける。
「やりたかった事全部やる。いろんな創作活動、したかったんだ。写真も毎日ここから撮って、ポストカードにして。遠藤さんって人に雇ってもらおうかな。ポストカード用の写真を撮る、この私鉄専属の写真家として」
楽しそうじゃない、そういうの──、二十五になったとも思えない、驚くほどの無防備さで窓の縁を掴んだままハツは白い歯を覗かせた。
「──子供みたい、梅渓さん。こんなところがあるなんて知らなかった」
呆れて溜め息をつく左記子に、久貝さんもね、とハツは返した。
「面白いよ、久貝さん。私が思っていたのより、かなりずっと面白い」
「それ、褒めてないでしょ」
「褒めてるよ」
カシ、と無機質な音がした。ハツが左記子に向けてあのごついカメラを構えていた。
ポラロイドなの、ハツはその珍妙な機械から押し出されて来たばかりのかっちりした紙を左記子に差し出す。ハツの好むセピアカラー。涙の跡を頰に残して、首を曲げて驚いたようにこちらを見る左記子が徐々に浮かび上がる。
「ほら」
覗き込む左記子の上から声が降る。
「“左記子ちゃん”に頼らなくたってちゃんとかわいい」
そうなのだろうか。素の左記子でも、ちゃんとかわいいのだろうか。
「“隣町銀河”に憧れた、って久貝さん言ったでしょ」
気づいてないと思うけど、と前置きしてハツは外の煌びやかな隣町銀河を指差す。もう電車はどこかの知らない町の知らない鉄道の上を走っていた。
「あれ」
彼女が指したのは連なって移動する灯りだった。夜行列車だろうか。
「あれ、どこかの電車でしょ。どう見える」
「どう見えるって、何」
「いいから」
質問の意図を図りかねながら左記子は考える。
「どうって、綺麗に決まってる」
細かい光が連なって瞬くので、美しさでいうならその光は他の灯りより一段飛び抜けていた。 そうでしょう、ハツは唇で笑った。あそこから見るとさ、こっちも同じように見える訳、と左記子を顧みた。
「私の言いたいこと分かる? 」
どういうことか分からなくて、戸惑いつつハツを見る。だから、と彼女はもう一度列車の灯りに注意を向けて指差した。
「久貝さんも、とっくに“隣町銀河”の一部なんだよ」
言われて戸惑いつつ改めて外を見やる。それはちらちらと複雑に、繊細に。
──ほんとに。
気持ちが解けてゆくのを悟られたくなくて口許を両の手で覆う。
確かに。こちらから見える、よその鉄道のきらきらした移動する窓の灯りが。
銀河のようだったので、心の内で安堵した。
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