第15話

【じゅう し】



目を開けたら、そこで隣町銀河が揺れている。


左記子は何事もなかったかのように電車に乗り続ける生活を繰り返している。昼は数時間車内販売をして働き、残りの時間は景色を見ることに費やす。以前と全く変わらない。

あのとき、確かに左記子は十七歳のハツと共にこの列車を降りた。

駅に降り立って、砂浜を歩いて、海辺まで行って、海中に潜り込んだ。夢ではない。それは実感としてしっかと残っていた。現に、左記子の胸の内の乾燥したような破片がカラカラ鳴ることはもう無かったし、“左記子ちゃん”は二度と姿を現さなかった。当然だ。あの夜の海で海中深くに沈めてきたのだから。

なのに、この列車に戻ることが出来たのは多分遠藤のお陰だ。以前ATTが作動し続けるには五分以上の停車は避けなければならないと聞いた。左記子とハツは優に一時間以上は海辺にいたと思う。だから、夜の海から戻ってきたときそのまま電車が待っているというのは有り得ない事なのだ。彼が何らかの調整──恐らくATTの停止と再稼働──をしてくれたのだろう。

あれから数日が経つ。左記子の予想通り、夏期休暇を終えたハツはもう夜の電車に乗っては来なかった。尤も今はこの列車は時間の表とは距離があるところを運行しているらしく、夜になっても皆橋駅のあるのとは全く別の路線を走っている。

たとえ遠藤がATTの動作を調整してくれていたとしても。左記子は思考を巡らせる。

彼が操作できるのはあくまで電車と時間に纏わる事だけだ。だから左記子の肉体に関することはまた別問題だろう。きっと左記子は普通の人間と認識されないほどに現実離れしてしまったのだ。そうに違いない。何の変質もない自分の身体を見て改めてそう思う。見た目の変化も成長も劣化もフリーズして、剥製のようになってしまった左記子は、だから物扱いされて時間の表から奥へ何事もなく戻って来られたのかもしれない。

いよいよ左記子は本当の化け物になってしまったのだ──そんな風に得心した。


「遠藤さん」

販売用の軽食を携えて車両にやってきた遠藤は左記子の声に反応して動きを止めた。

遠藤は左記子のプライベートに決して口を挟まない。毎夜ハツと過ごしていた時も何も言わず、どういうつもりでそうしているのか尋ねてくることも無かった。ハツと夜の海に飛び込んだ、夏休み最終日の翌日でさえもそうだった。単に寡黙なのか、それとも彼なりの優しさなのか。どうあれ、左記子はそれに甘えてハツのことや彼女と電車を降りたことについて何も語っていなかった。お互い事務的な会話しか交わさず今日まで来てしまったのだ。

「遅く、なりましたけど」

何も言っていなかったことに気後れして、言葉に詰まりながら続ける。

「ありがとうございました」

──あのときのこと。 全部、知っているんでしょう。

左記子は深く頭を下げた。

「電車を止めてくれて。待っていてくれて」

「ああ──なに、そんなのは」

そんなのは大した事ではないのですよ、とぎこちない動きで遠藤はそわそわと応じた。

「あなたは当電鉄に欠かせない従業員ですから」

くすりと左記子は笑った。遠藤の動揺ぶりを見て肩の力が抜ける。

「いいえ、助かったんです。後先考えていなかったので。それと、知っています」

「はあ」

「遠藤さん、ここへは通いで来ているわけでは無いんでしょう? ずっとこの電車に住み込みで働いてる。私と同じ」

今度こそ遠藤の動きは完全に止まった。

「たぶん私に不安な思いをさせないためだったんですよね。先頭のコントロール室のあたりに住んでいるんでしょう? 」

「はあ、まあ、いや── 」

気付いておられましたか、と遠藤は無駄に帽子を直したりした。伝達力がどうにも不足しているので、多分気付いておられないかもしれませんが──、遠藤は躊躇した様子で付け加えた。

「あなたには申し訳ないことをしたと、私なりに思ってはいるのです。最初の時点で説明不足だったと。そしてあなたはかなり薄くなってしまった」

遠藤は“薄い”という表現を好んで使う。言われる度に、左記子はその意味合いをまだ正確に把握できていないような気になる。

「あのときは下車されてから一時間以上戻って来られなかったですし、降りた駅も皆橋駅ではなかった。けれど、皆橋駅からならそれ以前も、五分以内で降りられていたことは数回あったでしょう? それなのにあなたはクラスメートの少女と問題なく接触出来た。通常の人間ならそうはいかないんです」

「短時間で、皆橋駅でもですか」

それだけだったら問題ないと思っていた。

「そう。最初に言ったように電車の外は時間の『表』が支配している。『奥』の時間を利用しているATTとは基本的に相容れないんです。ですから、あなたがもう時間に認識されない程に薄くなっているか、あの少女もどこか普通でないのか……。ですからその、申し訳ないと思いまして。 あなたがそこまで、私と同じ、」

「分かっています」

不思議なほど心は穏やかだった。

「とっくに受け入れているんですよ、前にもそう言いましたよね。気に入って自分で選んだ選択なんです。だから、遠藤さんが責任を感じると──困ってしまいます」

“左記子ちゃん”ではない笑顔は後ろめたさのない心地良さだった。目を瞬かせて左記子の目の前に立っているのは、時間の法則にもはや見捨てられた化け物。左記子自身も化け物。

それで好い、と思えた。


目を開けたら、そこで隣町銀河が揺れている。

逆に、左記子は永遠の不変を手に入れたのだ。若さも失わず、経済的な心配もない。多くの人が望んでも手に入れられないものを手に入れたのだ。そんな事を思いながら揺られている。

もはや自分が受け入れられるか不安で他人のために取り繕う必要もなく、左記子は生身の左記子として日々を過ごせる。だから幸せ。

「──だから幸せ」

確かめるように発した声は電車の振動音に掻き消されてしまった。

どうしてだろう。

左記子はそわそわと落ち着かず、深く寄りかかっていた背もたれから起き上がって身を伸ばした。

これ以上何を望むだろう。憧れも不老も手に入れて、重荷だったものも先日手放した。それから、奇跡としか思えないような綺羅綺羅しい経験をした。

──梅渓ハツ。

在学当時近づきたくて堪らなかった梅渓ハツと年齢もそのままに再会して、付かず離れずのの濃密で特別な時間を過ごした。二人で夜の海深くにダイブした思い出はたぶん左記子の人生のハイライトになる。

──私がいなくなって、困るのは左記子なんだから!

あのとき、最後の足掻きで“左記子ちゃん”はそう捨て台詞を吐いた。

本当に捨て台詞だったろうか?

ぱたた、と突如膝の上に連続してなまぬるい滴が落下した。

──なんで?

左記子は呆気にとられて頰に伝った涙を確かめた。

どうして泣いているのだろう。泣いたりなんかするのだろう。

ああ、違う。おかしくなんかないのだ。これが本来の左記子なのだ。

これまで何年も、泣くことなぞなかった。それは“左記子ちゃん”が左記子の本当の感情を麻痺させてカバーしていたから。だからやっていけた部分もあったのだ。これからは全部独りで胸のひりひりに対処しなければならないのだ。剥き出しの左記子のまま。 自分を誤魔化すことは、もう出来なかった。一度それに気づいてしまうと歯止めが効かず涙が溢れてくる。

本当は。

──足りない! 足りない!

この痛いのはなんだろう。どうしたら治まってくれるのだろう。

決着なんか、まだ全然ついていなかった。“左記子ちゃん”を捨てただけじゃ全然駄目だった。埋まらなくて。左記子の中身が深く美しいもので埋まらなくて。

どうしてみんな左記子の前からいなくなっちゃうの。どうして勝ち逃げみたいに左記子の事を置いていっちゃうの。どうして左記子の事、好きになってくれないの。

──左記子はこんなに頑張ってたのに!

小さな子供がひとりでこっそり泣くときのようにいつの間にか身体を丸めて低いうなり声を上げて泣く。どうしてこんなに胸が締め付けられるのだろう。一体何に傷ついているのだろう。それさえ分からず、ただ左記子は夢中で泣きつづけた。


がら、と近くの車両のドアの開いた音に気づいて左記子ははっと顔を上げた。いつ停車したのか、電車は小規模な駅に停まっていた。

皆橋駅だった。

電車は再び皆橋駅のある路線を走っていたのだ。しゃっくりあげながら乱暴に顔をこする。ドアを開けたのは誰だろう。気になるけれど、顔を見られたくない。

やがてドアの閉まる音がして、電車が動き出した。左記子はそわそわと腕をさする。そしてかすかにこちらへ向かう跫に気づいて、硬直した。

前触れもなく乱暴に車両を繋ぐドアが開いた。

「──やっぱり」

声は梅渓ハツのものだった。けれど姿は左記子の知っているハツと少し違う。

ネイビーのパンツにキャメルのカットソー。中に着ているタンクトップのボーダーがちらりと覗いている。大きな赤いリュックを背負って、右手にはクラシカルな印象のカメラを携えていた。垢抜けて程よく力のぬけた大人の女性。左記子は何か反応することも忘れて、不躾なほど相手の姿を眺めていた。

彼女はかつかつと躊躇することなく左記子にさらに近づく。そして黒目をまるく動かして、

「泣いてんの」

と尋ねた。






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