第14話
【じゅう さん】
深呼吸する。
深く、深く。
そうして願う。
左記子と世界が、深く美しいもので満ちるよう願う。
芸術品の鑑賞でもするように端正な顎の流線を横から眺めていたら、その唇の隙間からふふ、と息が漏れた。ハツの笑い声を初めて聞いた。
「思い出し笑い? 」
尤も、左記子に向けて笑い掛けた訳ではないのだろうけれど。
「そう 」
なにを思って笑ったのだろう。左記子が本当は十七歳の左記子ではなくて、日々ファンタジー漫画みたいな生活をしていて、尚且つそれに囚われていると知ったなら、同じようにハツは笑ってくれるだろうか。彼女は相変わらず前を向いたままで、相変わらず目線を合わせようとはしない。
毎晩のようにここでこうして過ごしていると、これが日常なのだと思わず錯覚してしまいそうになる。電車で生活するようになって、安らぎと興奮が手に入って、それはそれで充分幸せだと感じていた。けれどその生活に新たにハツが加わって、そうしたら欲が出てしまった。付かず離れず、分かりやすい優しさも理解も示さないハツだったけれど、左記子にはその距離感が程良かった。近すぎると“左記子ちゃん”が左記子を押し退けてしまうから。でも、この心地よい日々もおそらく今日までなのだ。
十七歳の夏休みが、終わる。
電車は平常通り穏やかな振動とともに進む。多分、左記子は『変わらないこと』にあまりに慣れ過ぎたのだ。だからこんなにも受け入れ難い。胸がカラカラ鳴って騒々しいので手遊びをして気を紛らす。
「夏休み、今日で終わりだね」
「うん」
「明日から学校で会えるね」
「うん」
会えるのはまだ夜のハツを知らない十七歳の左記子──“左記子ちゃん”──だけれど。素直に左記子の発言の一々に応えるハツは、心なしかいつもと違ってしおらしい。だから少し、油断してしまう。
「あのね──」
梅渓さん。本当はね。
本当は左記子はね。
別に、今の左記子の事情を明かしてはならないという決まりはない。遠藤にも特に注意されているわけではない。けれど、ただ左記子は恐れたのだ。ハツが左記子の話す何らかを受け入れなくて、左記子を軽蔑するかもしれない可能性を恐れたのだ。
「私、学校が始まったらあんまりここへは来ないと思う」
「そう」
「ちょっと寂しい」
「そう」
終わる。終わる。ハツと会える日々だけではなく。左記子の青春と。少女期と。
そしてほかのすべて。
今夜はハツに総てを賭ける日。
電車は少しずつ終点に近づいてきていた。
ゆるゆると泳がせていた自分の脚を見つめながら、電車の振動が段々にゆっくりになっていくのを感じ取る。たぶん、外にはもうあるのだろう。
──海が。
窓の外を睨む。昼間は何処までも続き、ひたすら美しく圧倒的だった海。今は暗くって見えやしない。
「梅渓さん」
いよいよだ、と思った。
「お願いが、あるの」
ハツはゆるりと左記子の方へ顔を傾けた。
「停車したら、一緒に降りない? 一度見てみたい処があるんだ」
「どこ」
彼女は眉根を寄せてそっと問う。
「あそこに海が見えるでしょう。そこまで行きたい」
──ハツと並んで、夜の海の正体を確かめたい。
「いいよ」
あっさりとハツは承諾し、次の瞬間軋轢音をたてて電車が停車態勢に入った。
どうなるのだろう。
このドアを開けて、一歩外へ出たなら左記子はどうなるだろう。
その瞬間の内にいま左記子を取り巻いていたものはすべて溶け去って、本来の経過時間の“表”に戻るだろうか。ハツも他の何もかも、置き去りにして。それとも予想も出来ないような何かが起こってしまうのだろうか。浦島太郎の竜宮伝説で太郎が玉手箱を開けたときのように、いっぺんに老け込んでしまったり、そういう可能性もあるのだろうか。遠藤は左記子が戻る心積もりでいた時、深夜の皆橋駅から戻るのが一番スムーズだと言って手はずを整えてくれた。では、何らかの準備もせずに皆橋駅でない駅から降りた場合、不具合が生じるということだろうか。
分からない。
分からないからこそ、賭けたのだ。
ハツと確実に接することの出来る最後の日である今晩、左記子の提案にハツが乗ってくれたなら、電車を降りてみようと思った。遠藤にすら何も相談していない。相談したならアドバイスなり反対なりしたかも知れない。だから、やめた。賭けはどうなるか分からないから賭けなのだ。そして、実行するかはハツの返事ひとつに懸かっていた。何事も無くハツと居られたらベストだけれど、もし外に出られて、そして無事だったら、その時はどんな状況になっていたとしても夜の海を確かめようと思っていた。
ハツがあまりにも簡単に肯定の返事をしたので、少しでも考えたりしたら躊躇して、足が竦んでしまいそうに思った。電車が完全に停車した瞬間、左記子はドアに駆け寄った。ハツも無言で左記子に倣う。
──さよなら。
遠藤さん。心の中でそれだけ唱えて、手動のドアの窪みに力を込めた。
ドアが開いた瞬間、潮の匂いが鼻を掠めた。間違いなくここは海街なのだ。
そこに、海があるのだ。
重力にまかせて落下するように駅に降り立った。とつ、とサンダルが軽い音を立てる。何事もなくスムーズに降りられたように感じる。
振り返ると、先程と少しも変わらない電車と、そのドアから先程と少しも変わらない梅渓ハツが降りてきた。
きっと、これは夜だから。
明るくなったらどこかおかしなところに気が付くかも知れない。でも今は気づかなくていい、と左記子は海辺に続く階段をゆっくりと踏み下る。ハツと下る。
あくまでも目的は夜の海で、夜の海をハツと一緒に確認することだから。
階段をすべて下り終えると、かたい地面は徐々に砂浜の感触になった。そして左記子の足裏を柔らかく受け止めて、受け止め切れずに心もとなく沈み始める。華奢でお洒落なサンダルはここでは何の意味もない。砂に足を取られたそのまま、左記子はそこにサンダルを置いてきた。
ざわざわと、前方から波の音が聞こえる。
「昼間だって海なんか滅多に行かないんだけど」
言いながら、ハツを顧みる。月明かりが彼女を神秘的に照らすのではっとするほどに美々しい。
「──どうしても一度、夜の海を見てみたくて」
いつか彼女は月明かりだけで充分と言っていたけれど、その意味が分かった気がした。
ハツは左記子を追い越して先を進む。
その先には、夜の海。
波打ち際の手前で止まったハツに追いついて隣に並んで、左記子は思い知った。
その波音。存在感。
昼間の海は全てを呑み込んで中和してしまう生き物のようだと感じていた。でも、それどころではない。夜の海はとっくに生き物だった。怖いくらいに自由で、昼の海以上に境目がない。
未体験の事象に対する空想は、ときに狭量なものになってしまうことがある。
夜の海というのは、こんなに果てがないものなのか。
時間の流れも海の潮の満ち引きも、昼も夜も光も闇も。そして左記子とハツの生存も。
唇を噛む。初めて隣町銀河を眺めたあのときと同じ。カラカラと。 カラカラと胸の内が制御不能なほどに騒ぎ立って。その中に“左記子ちゃん”もいる。
すべてをリセットしたいと思っていた。そう思って生まれ育った町を出た。
落ち着きなく騒ぎ立つ全てを呑み込む生き物。
──夜の海。
今なら、それが出来る。“左記子ちゃん”を永久にここに沈めることができる。
「海って夜に入ったら死にそうに思わない? 」
「思う」
ハツが即答するので笑った。でも、確かに波の先端で足先を舐められるだけで、引き摺り込まれるような迫力を感じる。
「私入る」
左記子の唐突な宣言にえ、とハツが向き直って完全に顔を確かめる前に歩き出した。
夜の海の様相を確認する事だけが目的のはずだった。でも、左記子はまんまと取り込まれてしまったのだ。ここでもまた、左記子は飛んで火に入る夏の虫だ。
──ごめんね。
勝手で。左記子はずっとハツを巻き込んでいる。歩を進める。
海の入り口はもうそこだった。
「待って」
ハツが左記子を呼んだ。制止するようなら、応じない心積りでいた。走って左記子に追いついたハツは相変わらず月光の下でうつくしい。
制止はされなかった。
ハツは左記子と向き合って、私も入る──、そう告げた。
ハツとなら全く怖いとは思わなかった。
よく見えない分、聴覚や触覚が研ぎ澄まされて昼間の海より湿った砂の感触が心地良く感じた。波音も普段より明瞭にさざめく。
夜の海の際。十七歳の梅渓ハツと並んで立っている。
一歩進んだら、寄せる波が足首にまで及んだ。もう一歩進んで足の裏が砂に触れるまえに何故かよろめき、何かに引かれるようにして一気に海の深みに到達した。
何に引かれたのだろう。ハツはどうなったろう。そんな事を一瞬思ったけれど、何でも構わないと思い直した。
頭のてっぺんまで海に包まれた。
満たされる。 満たされる。
隅々まで海に満ちたとき“左記子ちゃん”が騒ぎ出した。食器が激しく割れるときのような音を立てて暴れまわる。
──左記子ちゃん。もういい。もう退いて。
“左記子ちゃん”が退いたらその場所に、代わりに何を詰めようか。海水はそれに適うだろうか。
──左記子なんか、見た目だけのくせに! それしか取り柄がないくせに!
──知らないから!
──私がいなくなって、困るのは左記子なんだから!
“左記子ちゃん”が左記子の内側で精一杯の抵抗をしている。でも、気にもならない。
薄目を開けてこっそり海の正体を覗こうとしたら、細かな気泡が睫毛をかすめて視界を妨害した。
深呼吸する。
深く、深く。
入ってくるのは空気ではなく、海水でもない。
入ってくるのはもっと。
願う。
左記子と世界が、深く美しいもので満たされますように。
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