第13話

【じゅう に】



夜の色は単純な黒色ではない。光の発色もまた。

だから、夜の色、光の色としか表現できないものなのだ。


そんな思いをぼんやり巡らせながらハツの隣で脚を揺らしている。色彩はたくさんあるからこそ美しいと左記子は思う。たとえば、自分の肌の色ひとつ取っても昼と夜とでは見え方が明らかに違う。陽光に当たって透ける髪の透明感のある色味も好きだし、絵の具では決して表現出来ない樹々の緑色も愛しい。『色』すべてに名前をつけようとするこころみは本来無駄な行為なのではないかと思うけれど、名前を全く付けないなら付けないで不便が生じるので仕方のないことなのだろう。

一方、ハツは左記子と全く逆の考え方を持っているらしかった。ハツが主張するには、色彩は限られている方が心地好いのだそうだ。服選びと同様、シンプルさを好むらしい。

「月明かりは好きだけど」

ハツは背中を傾けて頬杖をついた。

「月明かり? 」

「色味がまろやかになるから、照らされるもの全部が。色彩はその程度で良いと私は思う」

「だから夜の散歩をするの? 」

ハツはまるで聞こえていないように応えない。目を細めて、採点でもしているみたいに窓の向こうの光の色した隣町銀河をじっと見つめている。始めの頃より会話はできるようになったけれど、相変わらずハツはハツだ。左記子の問いかけに答えてくれるのは三回に一回がいいところだ。

不安にはならなかった。左記子にはハツの内側に少しずつ入り込めているという確信があった。心を全く開いていないという訳でもないと思う。ただ、梅渓ハツという娘は左記子が高校時代付き合っていた友人たちと比べて、非常に繊細で、そして少し捻くれているのだ。そんなことが段々に分かってきた。けれど、周りがどうあろうと流されたりしない。どんな場面でもハツはそのままでいてくれる。左記子みたいに、“左記子ちゃん”に頼りきって流されたりなんかしない。そのことを思うと、やはり変わらず胸が痛いほど憧れた。

「私も夜の散歩が好き」

だから左記子はハツに構わず独り言のように語る。

「完全に一人になれるから、落ち着けて。夏休みは特に日課みたいになってた」

ハツと同じ十七歳だった頃の自分を思い出す。一人になりたいのなら家の自分の部屋に篭っても良かったのだけれど、なぜかそれだと落ち着くことができなかった。何かから逃げようとするように、遠ざかろうとするように、いつの間にやら夜の散歩は左記子の習慣になっていた。遠藤と出会ってから先、その習慣も途絶えてしまったけれど。

「私の部屋ね、一階にあるの。だから抜け出すのは簡単なんだ」

学習机の一番下の底の深い引き出し。左記子はそこにサンダルを一足忍ばせていた。祖母は早く寝てしまう人なので、それを履いて窓から抜け出すのは容易いことだった。「梅渓さんはどうして夜に出歩くの」

──どうして欠かさず夜の電車に乗るの。

ハツは多分聞いてはいない。聞いていて、よしんば返事をしてくれたとしても表面的な答えしか寄越さないだろう。いや、それを言うならそのことに関しては左記子だってそうなのだ。

なぜ夜の散歩をするの。なぜこの町から出たかったの。

なぜこの奇妙な生活を選んだの?

そんなの、左記子だって教えて欲しい。それはただ電車での生活に憧れていたから、などという単純な解答ではなく。核となるものは何なのだろう。

左記子を、ハツを突き動かす動力ともいうべき核は一体何なのだろう。

ハツの隣で脚を揺らしながら左記子も彼女と同じ景色を見ている。ハツといると、他の人たちといる時のように気を張らなくて済む。クラスメートと一緒に過ごしながら考え事をするなんて、今までは出来ないことだった。


電車は折り返し地点の駅に到達しようとしていた。

この駅がここの路線の終点で、しばらく停車したのち折り返す。学生の頃、昼間の皆橋駅から乗って友人たちと一緒この駅まで来たことが何度かある。降りてすぐ下ったところに海があるのだ。広やかな砂浜のある穏やかな海辺なので、海水浴といえば決まってここへ来ていた。

海辺の町というのは来る度毎回新鮮な思いがした。

左記子の住んでいる町だって、電車で三十分でここに来れるのだから海からそう遠くはないのだけれど、日々目の届くところに海がある生活というのはやはり違うのだろうな、と感じさせる雰囲気があった。全てを飲み込んで中和してしまいそうな海の果てのなさに圧倒させられて、ときおり海中で左記子の足にぬるりと触れる正体不明の何かに対する未知を感じた。町の空気も独特で、潮風の影響なのか、どこか赤茶けたガードレールやアスファルトがノスタルジーな雰囲気を醸していた。

電車が停車した今、目の前にあの頃訪れたおなじ海があった。正確には、あるはずだ、と表現しなければならないけれど。外の総てが夜の色の今は、砂浜も波もアスファルトの赤茶色も見えない。見えないから本当のところは分からない。あそこに海が確かに存在しているのか、存在したとしても昼間とおなじ姿をしているのか。

ふと、夜の海はどんな様相をしているだろうと思った。生活圏の中に海がない左記子にとって、それは未知だ。

──見てみたい。

ハツとなら。

ハツと黙って、夜の海をいつまでも眺めたい。その正体を確かめたい。

──でも。

実行できるチャンスはもうそれほど残っていないかもしれない。左記子はいつまで十七歳のハツとこうして過ごしていられるだろう。彼女と再会して十日ほど経った。夏休みの期間は残すところあと半分ほど。この休暇中はこうしていられるとして、そのあとはどうなるだろうか。気まぐれなATTによって管理されているこの電車では、変わらずハツと会える保証なぞどこにも無いのだ。左記子とハツの関係性は確かに徐々に変わってはきている。でもそれだけでは。もっと何か。

──だって、根本的なものはまだ変わってない。

“左記子ちゃん”だって捨てられていないのに。

証が欲しい。夏休みが終わって、もう二度とハツに会えなくなったとしても。時間に呑まれて、“左記子ちゃん”に呑まれて、自分が何者かすっかり分からなくなってしまわないための確かな導が、欲しい。

スカートの裾を固く握り締める。

電車が逆走を開始する。

──賭けよう。

密かに決意した。左記子は、賭ける。ハツの夏期休暇最終日にすべてを投げ出して彼女に賭けよう。それなら、何も惜しくない。

心に決めたとき、何を思ったかハツがだしぬけに首を曲げて左記子の顔を驚いたように見つめた。咄嗟の声も出なかった。しばらくハツを見返して、どうしたの、とやっと返す。ハツはなぜか茫然としていた。左記子の胸の内を読んだのか。いや、そんなことは無いはずだ。たとえそうでないとしてもここは通常の常識が通用しない場所ではある。事実、この空間では正常な時間の流れも、熱力学第二法則さえも正常に機能していないのだ。ハツはこの電鉄の奇妙さに気付き始めているのだろうか。

梅渓ハツは、どのようにしてここの存在を知った?

ハツも左記子と同じように“薄く”なり始めているのだろうか。

穏やかに運行を続ける電車と対照を成すように、左記子の内面は忙しく掻き回されていた。


そして、それなのに最後に残ったのは、先ほど目に焼き付いたハツの柔らかそうな頰の皮膚の肌理のこまやかさだった。

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