第12話
【じゅう いち】
遠藤は根拠のない不思議などないと言うけれど、左記子にはそれがよく分からない。
説明を受けはしたけれど、遠藤の発見した時間の法則など、左記子にとっては“不思議な話”としか捉えようがない。梅渓ハツに関することも同じで、ハツが当然のように皆橋駅の深夜の無料開放のことを知っているのも、いまの状態の左記子がハツと再会して一緒に夜のひとときを過ごすのも、それが可能なのも左記子にとってはすべて不思議で仕様がないことだった。
きゅるきゅるとワゴンが鳴る。
ハツと接触した夜から三日目になる。相変わらず左記子は電車での生活を続けている。
本当によろしいのですか、と遠藤は眉を寄せた。良いんです、私が望んだことですから、そう左記子は返答した。確かに、自分が徐々に文字通り現実離れしていくことに恐ろしさもあった。でも、逆に言えばそれ以外はここでの生活に満ち足りているのだ。左記子が自分はもう遠藤と同類、化け物じみた存在だと自覚して開き直れば良いだけの事だ。
これからも遠藤さんの『美しい思い出』の再現を続けるつもりです、そう冗談めかしたら、遠藤は神妙な面持ちでにこりともせずに深く深く頭を下げた。
今夜も、ハツに会いに行く。遠藤の推測通り、彼女は連日夜の駅へ通ってくる。少ない会話のやり取りから、ハツの時間は今高校二年生の夏休みだと目処が立った。高校二年生の時にしか接点の無かった教師の名を、ハツがぽつりと口にしたからだ。機械的にワゴンを押しながら、思い出す。
──古文。
好きな授業は何かと尋ねた時、ハツは前を向いたままうんざりした様子でそう答えたのだった。
意外、梅渓さんは数学とか科学とかのイメージがあるのに、と左記子が反応するとハツは酒田先生の授業が分かりやすいから、と付け加えた。
酒田先生。
十七歳の左記子も、酒田先生が好きだった。生徒との接し方に余裕があるのだ。五十代ほどに見える飄々とした雰囲気の女性教師で、美人という訳でもないのに脚だけはなぜだか羨ましいほどに色っぽかった。特定の生徒と仲の良い教師はよく見かけたが、酒田先生に限っては全ての生徒と満遍なく親しい。どの生徒とも小さな秘密を共有しているらしく、ときどき授業中に誰かに向けて意味ありげににやりと笑うことがあった。酒田先生は、ハツとも秘密の共有をしていたのだろうか。そう思うと少し悔しい気もした。左記子はまだ、ハツとの個人的な関係を築くことを許されていない。
言われてみれば、酒田先生の授業には印象的なものが多かった。特に思い出すのは『徒然草』の吉田兼好にまつわる先生の推論だ。心に浮かぶあれこれを思いのままに書き綴っていくと、書いているうちに狂おしい気持ちになってしまう、兼好は序文でそう書いている。“夢中になる”でも“心が研ぎ澄まされる”でもなく、狂おしいと。兼好をそれほどまでにさせる要素は何だったんだろうね、と先生は私たちに問いかけた。当然、私たちには難しすぎる質問だ。先生は一拍置いて、これはテストに関係ないし、私が思うだけなんだけど、と断りを入れて、“夜”だったんじゃないかと、そう言った。兼好を狂わせたのは夜だったのではないかと。兼好は夜な夜な『徒然草』を執筆していたのではないかと。「あんた達もそういう経験、ない? 」そうして思わせぶりに、にやりと笑った。
夜は、狂う。
左記子は今夜も、ハツに会いに行く。
ハツはいつもと同じ車両のいつもと同じロングシートの座席の端に座っていた。ただそこに座っているだけなのに、佇まいが絵になる。
「梅渓さん」
左記子もいつものようににこりと笑って彼女の隣に座ると、彼女は短く息を吐き出して軽蔑するような眼差しを向けた。
「私の事、助けてるつもりなわけ 」
「え? 」
「久貝さんから見て勝手に私が寂しいだろうとか決めつけて、優しくしてあげてるつもりなの」
ハツは淀みなく続ける。
「はっきり言って久貝さんがこうやって近づいてくるの、結構邪魔なんだけど」
ひとしきり自分の主張をすると、左記子から視線を外した。
左記子も正面を向く。ハツが自分の気持ちをぶつけて来たのは初めてのことだった。
揺ら揺らと。
時間の流れすら、揺ら揺らと。
ハツは少しづつ変わり始めている。そして左記子も。ハツの言葉は、その内容が辛辣なものでも、不思議と左記子を痛めつけない。ハツの表情がそれに影響しているのかもしれない。
そんな風に思っていたのか。ハツは左記子をそんなふうに捉えていたのか。ハツを“外れている子”と見なして朗らかな笑顔で悪意なく輪に入れてあげようとする、明るくて気のいいちょっとお節介なクラスメート。
──なんだ、“左記子ちゃん”じゃない。
結局、ハツの目にも左記子は“左記子ちゃん”として映っていたのか。本当の左記子を見抜かれていると思っていたのは左記子の思い過ごしだったのだ。
なぜだろう。見透かされていなかったのだから安心してもいいはずなのに、ほんの少し失望した。
けれど、左記子の方もどうだろう。左記子だってハツをイメージのみで捉えてはいなかったか。卒業から時間が経ってこうして再び接触するハツは、あの頃と同じ印象で左記子の前に現れたか。
──そうじゃない。
あの頃は本当に遠くから必死に覗くようにしてハツを見ていた。囲まれた大勢の友人越しにしか接触できなかった。手が届かない。だからいつの間にやらハツを無意識に神聖視するようになって──それじゃあ『左記子ちゃん教』と同じではないか。今こうして見るハツは、左記子が思っていたよりもずっと少女らしく、ずっと思春期で、ナイーブだ。
左記子の胸はカラカラと鳴る。もっと、ずっと、私たちには時間が必要だ。
ハツの隙間はすでに空いている。左記子はその隙間にもっと入り込んでいく。巧みに、滑らかに。そうして少しづつ、左記子の中にしがみ付いている“左記子ちゃん”を捨てなければ。
「そうじゃ、ないよ」
左記子は背筋を伸ばした。何が、ハツが反応する。
「梅渓さんが寂しそうとか、思ってないよ。そういう顔してないし。助けようとも思ってない」
「じゃあ何で」
──来た。
「『理由とか必要? 』」
言ってやった。嬉しくてハツの顔を覗き込む。綺麗な目。白目の濁りが少しもない。
「梅渓さん、電車好きなんでしょ」
意味ありげに大きく目瞬きをしてみせる。
「それから夜が好き」
兼好をも狂わせた夜が好き。
「夜にはほんとうに力があるんだよ。古文の酒田先生が前に言ったの、憶えてる? あれは本当だよ」
夜には隣町銀河がある。左記子の心を騒がせる。宇宙なのか夜空なのか、上なのか下なのか。時間の表なのか奥なのか。
暗いからもうすっかり分からない。
「怖い?」
左記子は少し怖いけれど。でも、どちらかと言えば左記子はもう『怖い世界』の側の人間だから。
やがてハツは観念したように溜めた息を吐いた。
「もう好いよ。勝手にすれば」
左記子も笑顔とともに溜めていた息を漏らした。
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