第11話
【じゅう】
梅渓ハツ。
彼女にだけは左記子の虚構が見透かされている気がして怖くて仕方がなかった。けれど矛盾して、ことある毎に近づきたいと密かに願った。どうしてそう思ったのか、今なら分かる。
左記子はただ『友達』が欲しかったのだと。
電車は滑らかに運転を再開しはじめた。くん、と表と奥の時間の距離が限りなく近くなるのを感じる。もうほんの僅か近づけば融合するほどに。やはりここは特別な場所なのらしい。夜の皆橋駅は、もう一つの世界への入口なのだ。
このタイミングで電車を降りなかったことに後悔はなかった。むしろ後悔するのは降りた場合だったかもしれない。それは、梅渓ハツが現れるか現れないかに関わりなく。
自覚したのだ。
決着が、まだついていない。
ハツに接触するつもりで衝動的に移動してきたけれど、彼女の頭が見える辺りの位置で足が止まった。いざ声を掛けようとすると、どのように切り出せばいいのか分からない。
隣の車両からしばらく様子を伺うことにした。
ハツは自分が覗かれていることに少しも気づく気配がない。いかにも真剣な目つきで窓の外を眺めている。全身全霊を傾けて、この列車内の空気感を味わおうとしているかのようだった。
左記子はその姿を意外な思いで見つめた。クールな印象のハツが、他のことを一切手放しにしてただ一つのことに集中している様子は、学校では見たことがなかった。在学当時は大人びた少女だと思っていた。でも今、常に張り巡らせていたバリアを解いて座席の端にぽつねんと座っているさまは、思い出の中の彼女より幾分幼い。
シートに体を預けて揺られるがままになっていたハツは、やがて首を垂れ眠り込んでしまった。
普段から非日常なこの場所で、さらに増し加えてこの状況はあまりにも非日常すぎた。無防備に眠る十代の梅渓ハツとそれを覗き見ている左記子。真夜中の、人気のない電車の中。そして隣町銀河。
今、ハツと接触したら。
たぶん、何かが、変わる。
自然と立ち上がった。何を話そうかなどと、決めなくてもいいのだ。どうあっても左記子は左記子で、ハツはハツであることに変わりはない。
ハツのいる車両に移ったあたりで、彼女は微睡みから醒めたようだった。
「梅渓さん? 」
声を掛けた瞬間、“左記子ちゃん”はすっかり左記子の中に舞い戻った。ぼんやり頭をさすっていたハツはぎょっとしたようにこちらを見た。
「あのね、」
構わず笑顔でハツのすぐ隣に腰掛ける。
「時々乗るの、私。電車とか好きで」
“左記子ちゃん”ならすらすらと言葉が出てくる。人の好さそうな懐っこい笑顔を浮かべてこうやって自然に相手との距離感を埋められるのは、“左記子ちゃん”の特権だ。ハツは会いたくなかった、というような表情で怪訝そうに左記子を一瞥した。プライベートを知られたくなかったのかもしれない。
けれども左記子の方は急速にハツに親近感を感じていた。深夜に一人で町を徘徊する。それは、十七歳の左記子もやっていたことだった。皆橋駅の無料開放のことを知っているということも同じ。そして、先ほど夜の電車に全神経を集中させている姿を見てから、ハツに対する感想が変わり始めていた。
今までは憧れに近い感情を持っていたに過ぎなかった。でも、もしかしたら素の左記子の性質は、梅渓ハツの持っているそれに近いのかもしれない。梅渓ハツという少女は、もうひとつの左記子を引き出せる。
もうひとりのわたし。
そ、とだけ応えたハツは自分から何か話を振るつもりはないようだった。教室で見ていた姿と同じ。私に構わないで、という言葉によらないメッセージ。
「梅渓さんも電車、好きなの? 」
知っている。あんな表情をするのだ。嫌いな訳がない。
「理由とか必要? 」
「そういう訳じゃないけど」
彼女は手強かった。隙を見せない。ふと足元に目を遣ると、ごつごつとしたハツの黒いサンダルが目に入った。左記子の華奢なデザインのものと随分違う。ああいう無骨な印象なものを、左記子は持ったことがない。左記子の身に付けるものは全て母が買ってきたものだからだ。
母は気まぐれに家へ顔を出す度に『お土産』と称して左記子に洋服やら小物やらを充てがった。着てみて着てみて、と急かす母はいつも上機嫌だった。
いかにも少女らしさを強調させるそれらの洋服が全て高価なブランドのものだということは、知っていた。シンプルで繊細な色合い、形が綺麗で甘過ぎない。似たようなものでも、安い量産型のワンピースは生地が薄ぺらだったり装飾が過剰だったり短か過ぎたりするからすぐに分かる。良いなと思ったものは思いの外高いという類のもので、母はいつも躊躇なくデザイン性の方を優先させるのだった。母のお金の出どころは不明だったが、敢えて考えないようにしていた。毎回服を買ってくる理由も。どうあれその服たちは、より“左記子ちゃん”らしさを完璧にさせた。左記子も左記子で、母のセンスは悪くないし、ものは良いので、と言われるがままに与えられた服を着ていた。
一方、ハツの姿はいつもシンプルでボーイッシュだった。左記子もシンプルといえばそうだが、系統が違う。ハツの場合は本当に服の買い方からシンプルなのだろうと思わせた。ほぼ毎日ジーンズにTシャツ。しかも左記子の母の嫌うファストファッションのぺらぺらのTシャツだ。通学用のリュックも靴も、どこにでも売っているようなものだった。
けれどもなぜかハツは人目を引いた。ハツのしなやかな腕や脚や、着ているものでなくハツそのものに目がいくのだ。ハツが屈んだときに生地の薄いTシャツから浮かび上がる背骨の並びを見るのが密かに好きだった。 ハツは、左記子とは別の意味で少女らしかったのかもしれない。安い服でも魅力的に野暮ったさを感じさせずに着ることができるのは、少女だからこそだ。羨ましかった。べつに左記子だってそういう服装で良かったのだ、と今になって思う。歩きやすいサンダルや動きやすいジーンズでどこでも好きな所へ行けたならそれで良かったのだと思う。それが出来なかったからこそ、今になって拗らせて、こんなにもややこしい事態に陥っているのだ。
「親は? 」
唐突に、ハツが話しかけた。不意を突かれて左記子は顔を上げる。こちらを向いた不機嫌そうなハツは、だから、と溜息をついて更に話しかけた。
「久貝さんの親は久貝さんがこういう事してるの知ってるの」
呆れているような、心配しているような口調。左記子の事情を気にしてくれているのか。
でも、そんなのは。
──自分だって。
自分だってどうしたというのだ。年頃の女の子がこんな時間に出歩いて、こんな怪しい電車に乗り込んで。
見つけた、と思った。ハツに入り込む為の、
──隙。
「──梅渓さんは? 」
思わず顔が緩んだとき、がたりと大きめの振動を感じた。
左記子を見返す、ハツの瞳が揺れていた。
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