第10話
【く】
左記子が揺れると、隣町銀河も揺れる。
左記子の着ている淡いパステルカラーのワンピースのフリルもその度に細かく振れる。
手に持ったポストカードを持て余して、ときおり無為に撫でたりした。
「何にせよ、移動が必須なのですよ」
左記子は昨夜遠藤が語った言葉の端々を繰り返し思い出し、再生させていた。
ATTを作動させるためには常時の移動が条件なんです、そう遠藤は語った。
「停止していられるのは長くとも五分まで。時間自体、常に移動する性質のものなので」
ですから基本的にこの列車は走り続けています、遠藤は続ける。
「例外はありますが。もし停車時間が長くなり過ぎた場合は、再び作動させなければなりません。最近で言えば、あなたをここにお誘いした時がそうでした」
詳しい原理は分からないが、線路から線路への移動は深夜に行われるのだという。現実の電車が運行している時間帯はその電車と“重なって”同じ線路を走るのだそうだ。左記子が販売員として相手をしていた客は、稀にその現実の列車からこの列車と“重なって”しまう人たちだったのだと遠藤は明かした。だから、一見ごく普通の電車に乗ったつもりになっていても、実はATTの管理するこの列車に乗り込んでいた、ということはよくある事なのらしい。説明されても正直よく分からなくて、左記子は理解することを諦めた。もうただ生じている結果だけ受け入れることにした。
「それでですね。オリジナルのポストカードを販売することを思い付いたんです」
せっかく当電鉄においでになった記念に、などと呑気なことを珍しく生き生きとした表情で語る。自身が言うように、遠藤の感覚はもう常人と大分ずれてきているに違いなかった。それともこの人は元々若い頃から風変わりな学者肌の人物だったのだろうか。
ひとつだけ、左記子から尋ねたことがあった。時間の奥で、過去にさえ行くことの出来るこの列車では、降車したら過去の人物に会いに行くことができるのかと。高校生のままの梅渓ハツに会ったように。
母のことを考えていた。
母の過去を見たかった。母が何を見、何をして、あのような状態になっていたのか。外見以外で左記子のことを気に掛けている素振りを示したことはなかったか。どのような状況であの人は死に至ったのだろう。
もしそれを知ることができたなら。その真実が良くても悪くても、左記子は“左記子ちゃん”を捨てることが出来るのではないかと、密かにそんな期待を抱いていた。
「それは出来ないのです。その行為はたとえ奥行きでも時間の法則に逆らうのです」
遠藤は残念そうに首を振った。
「ましてやそこの人と接触したり話したりなどは到底出来ない。列車が過去を走っていても、降りればたちまちそこは現代になってしまう。申し上げたでしょう、移動が必須なのだと。接触できるのは当電鉄に乗って来られる方だけです」
遠藤は他にもあれこれ時間の奥行きにまつわる細かなことを語り続けた。過去の“奥”には行けるが未来には行けないこと、未来はその時になるまでは存在しない性質のものであること、したがって時間軸の図に示したY地点とは実際には未来ではなく現時点そのものであること。“奥”の時間の左右の移動は可能だったが上下の移動は未だに成功していないこと。
そうですか、と左記子は笑った。
そういえば髪もちっとも伸びていなかったな、と今更気がついた。久し振りに窓ガラスに映る自分の顔をまじまじ眺めた気がする。手にしたポストカードは、記念に、と遠藤が手渡してくれたものだ。今までずっと言われるがまま販売していたのに碌に見もしなかったこの私鉄オリジナルのポストカード。
漆黒の背景にランダムに散らばる白っぽいハイライト。車内から撮った、夜の街の風景なのだという。つまり、隣町銀河だ。こうして枠がつくと、夜空とも宇宙とも見分けがつかない。窓の外と見比べても同じ。上なのか下なのか、分からない。
今夜限りで、左記子はこの私鉄を降りる。
今振り返ってみても、どうしてこのような体験ができたのか不思議でならない。これからもきっと一生、記憶に鮮烈に残り続けるはずだ。
今夜もまた、列車は皆橋駅に停車するそうだ。遠藤によると、深夜の皆橋駅から下車するのが一番スムーズに現実の時間に戻れる方法なのらしい。そしてまた、現実の時間で生活する人間が確実にこの私鉄に乗ることのできる駅なのだそうだ。つまり、唯一深夜の無料開放を行なっている駅。左記子が初めて乗った高校生の時は、終点まで行って戻ってくるだけだったけれど。今もそうなのだろうか。
「地元の人はどれくらい、皆橋駅が深夜に無料開放することを知ってるんでしょうね」
左記子は自分の座っている位置から二人分ほどスペースを空けて腰掛けている遠藤に話し掛けた。
「さあ。大々的に宣伝してはいませんからね。時々、駅前に立ってご案内することもありますが」
ロングシートの座席に電車の振動がダイレクトに伝わってくる。遠藤の言葉に左記子は思わず苦笑した。あれは『ご案内』しているつもりだったのか。あの時は恐ろしさしか感じなかったけれど。
「どうして、皆橋駅だったんですか」
尋ねると、遠藤は一瞬言い淀んだ。
「あの町は私の生まれ育った町だからです」
この歳になって情けない話ですが、帽子のせいで表情は読み取れないが、照れているような口ぶりで遠藤は続ける。
「未だに過去に囚われているところがあるのでね。あなたに車内販売をお願いしたいと思ったのも、車内販売のセット一式も、あの上品な制服も、まあ、言ってしまえば私の美しい思い出の再現なのです。あなたに付き合わせてしまいましたね」
車両が定期的に心地よいリズムで揺れる。この“時”がいつまでも続けばいい、それが願いだったと遠藤は言った。恐らく、その中にはもっと複雑な思いも含まれていたのだろう。
過程で失うものはきっと幾つもあって、それでもこれだけ時間について研究した。成果も出した。けれど、遠藤の願いは果たして叶ったのだろうか──そんな事を思ったけれど口には出さず、代わりに、じゃあ私達は同郷だったんですね、そう応えるに留めた。
「もう直ぐ到着ですね」
朗読するような単調さで遠藤は言った。時刻は二十四時四十七分になっていた。皆橋駅到着まであと二十分程だ。
「最後にお訊きしてよろしいでしょうか」
「何をでしょうか」
もう随分この人の風変わりさには慣れていた。
「なぜ、戻りたいのですか」
遠藤の言葉選びは単刀直入だった。
なぜ。
動揺して正面を向いたら、窓ガラスに眉間に皺の寄った左記子が映った。
「それは」
遠藤の方に顔が向けられない。
「──この状態が自然に逆らうことだと思うからです。ここに居続けると人としての資格を失うみたいに思えて。正規の世界で正規の時間を生きる。当然の権利を当然のように行使したいだけです」
それが、本来の、本当の私だから、それだから、私は。
──本当の私? 何を言ってるの? ねえ。
“左記子ちゃん”が冷笑したような気がした。本当の左記子などどこにいる? 今までどこにいた?
──左記子ちゃん。左記子ちゃん。
クラスメート達が左記子を呼ぶ声がぐにゃぐにゃにねじけて混ざり合う。カラカラと左記子の内側で乾燥した欠片が騒ぎ立つ。内臓がざらざらする。
「ここでの生活は、あまり快適ではなかったでしょうか」
「そういうことではないんです。夢見た通りの生活でした。楽しかったですよ」
なぜ間際になってこんな気持ちになるのだろう。遠藤はなぜこんな気持ちにさせるのだろう。
「降りたら、どうされるのですか」
「祖母に会いに行きます。それから考えます」
そうですか──遠藤は静かに頷いた。
「要するに、私のようになりたくないといったところでしょうか」
それが良い、初めて見た遠藤の笑顔が自虐染みたものだというのが、少し申し訳なかった。
これがここから最後に見る景色。
隣町銀河。
美しいものになろうとして、美しいものを求めて、自分を美しいと認めたくて。左記子はここを選んだ。左記子は一体どうしたかったというのだろう。どこからの是認を得たかったのだろう。隣町銀河に何を求めていたのだろう。隣町銀河は、左記子と違って美しくあるのに理由なんかない。ただそこにいて、ただ美しくある。自己満足も、周囲の賞賛も必要ない。それを分かっていたからこそあのとき燥いだと同時に、ぎりぎりと手摺を握り締めたのだ。
あの時と、何か変わっただろうか。
電車がゆっくりとしたリズムを刻みはじめる。皆橋駅に近づいているのだ。
やがて電車は皆橋駅に到着した。明かりすらついていない。無料開放しているというのに、素っ気ない。
最後は笑顔で、と決意してキャリーバッグの持ち手を握った時だった。
規則的に並んだホームのベンチから人影が立ち上がった。
「これは」
先に反応したのは遠藤の方だった。人影は電車の扉の奥へするりと入った。
「梅渓さん」
見紛う事のない高校時代のままの梅渓ハツは、前回と同じような位置の座席に慣れた様子で軽やかに座った。
「先日見たとおっしゃられたのは、あの方ですか」
左記子は首の動きで肯定する。
「通いで来られているのかな。珍しい」
梅渓ハツ。ずっと左記子に構わないで難解そうな本を黙々と読んでいた、梅渓ハツ。この私鉄を降りたら二度と会うことがない十代の梅渓ハツ。
「遠藤さん」
遠藤が立ち上がった左記子を見上げる。
「この列車内で会うのなら、接触も会話もできるんでしたね」
ええ──、と遠藤が答えるや否や左記子は持っていたポストカードを座席に置いた。
「やめます、この列車降りるの」
呆然とする遠藤を後にして、左記子はハツのいる車両に向かって歩き始めた。
途中で窓ガラスに映る自分を確認する。
少女だけに許されるようなデザインのワンピース。大丈夫、ちゃんと似合っている。
そして。
内面に纏った“左記子ちゃん”は、まだ左記子に似合っているだろうか。
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