第9話

【はち】



電車で暮らすようになったなら。


それは長年左記子の頭の中を駆け巡る、楽しく夢のある空想だった。

今、左記子は奇妙ななりゆきでその空想通りの生活を手に入れている。毎日美しいものに触れて。余計な物事に囚われなくて。開いていながら閉じていて。

たぶんそこでは時の流れも違うのだろう。

年も取らないだろう。

──そんな事まで思い描いていた。


〈薄く〉なる、との言葉に左記子は難解さと共にどこか腑に落ちるものも感じていた。

ここで生活する年月が増し加わるごとに、どこかから遠のいていく感覚。その感覚はごくたまに左記子を不安にさせることもあったけれど、さしたる害もないように思えたので気づかない振りをして遣り過ごしていた。

時間の、奥。

それが実在したとして、時間の奥なら移動が可能なのだとして。

左記子ははっとした。

では、“時間の奥と共に移動している人間”の時間はどういう動き方をしているのだろう。

時々感じる空間の切れ目のような違和感。外の世界と同じようでいてどこか違っている毎日の流れ。ここに長らくとどまっていたり、それに関わっていることによって何らかの影響を受けている可能性があるのは自然なことのように思えた。

「それは、薄い、というのは」

これは気のせいだと思っていたんですけど、左記子は祖母が編んでくれたレース編みのストールのことを思う。

「傷まないんですよ。ここで働き始めた時に持っていた服とか、鞄とか、とにかく持ち物全般が。だから買い足す必要もなくて、電車を降りようと思ったことも一度もなかったんですけど」

ああ、そうですね、遠藤はそれが大した事でないように肯定する。

「そういう事も含まれています。数時間とか、せいぜい数日ならさしたる変化もないのですが。ここはいわば時間が混線しているのですね。不可視のものは影響を受けません。劣化しませんから。あなたも思考がフリーズしてしまうような事はなかったでしょう? 内面はちゃんと動くので成長できるのです。けれど、どうやら可視物質は“混乱”するようです。混乱するとどうなるか。そう。フリーズ状態になる。止まってしまうんです」

ですから、傷まない、遠藤は皺ひとつない自分の制服の袖口を示した。

「つまり、ここの秩序は現実世界とは異なる独自の法則で動いている。本来人間は使用することのない空間でしたから。ですから長期連用していると現実から切り離されてしまう危険性があります。現実から切り離される──〈薄く〉なる訳です」

そこでは多分、時間の流れも違うのだろう。

「うそ」

薄くなる。現実の世界から、薄くなる。独自の法則で動いている空間。そこに長期間滞在している左記子。可視のものはフリーズする世界。

「じゃあ、」

そこでようやく把握する。思わずがたりと立ち上がる。

「もしかして私、歳を取っていないんですか」

遠藤は驚いたように左記子を見上げた。

「あなたは歳を取りたいのですか」

「そういう問題ではないんです! 」

そういう問題じゃない、左記子は堪らず顔を両手で覆った。

「だって、私、だって──。 それじゃあ、人ではないみたい」

高校の時と何一つ変わらない顔、とは思っていた。でも、まさか全く変化していないとは。取り乱した左記子は、矢継ぎ早に遠藤を責め立てた。

「どうして私をここで働くように誘ったんですか。だってこんな、“時間の奥”なんて、“現実が薄くなる”なんて普通じゃない。どうしてわざわざ私を──」

いや。私だからか。

「私を選んだ理由はそれですか。社会とも学校とも家族とも繋がっていない、住居にも縛られない、つまり、私が社会から消えても問題にならないと判断して、それで誘い込んだんですか」

悔しかった。悔しいという感情すら、久し振りだった。“左記子ちゃん”なら、こんな醜く取り乱しはしないから。

いや、そんなに驚くとは──左記子の反応は、遠藤にとって意外なものらしかった。遠藤は立ち上がり、左記子に再び頭を下げた。

「いや、済まない。私の感覚は気づかないうち常人と大分ずれてきてしまっているのかもしれません。私としては、単純に毎日通う所のない方のほうが本人の負担が少ないと思った、それだけのことなのですが。それに、あなたはわざわざ深夜の皆橋駅にまで来られていた事もあったのでてっきり興味をお持ちだと。一方、私は車内販売員が欲しかった。それで、お互いにこれは丁度良いと早合点してしまいました」

律儀にきっちり腰まで曲げて謝る遠藤を見ているうち、なんだか力が抜けて、先程までの興奮はどこかへ行ってしまった。


時間について何十年も研究したと、彼は言った。

その『何十年』とは、正確には一体何年なのだろう。というより、年齢は幾つなのだろうか。

彼もまた左記子と同じように肉体の時間がストップしているのであれば、それは見た目で推し量れるものでない。一般社会の常識や概念や、普通に生きている人間の感情や、そういった感覚が薄れてきても仕方ない程の時間を経験したのかもしれない。

「遠藤さん」

頭を上げて、座ってください──左記子は自分も元の座席に腰を下ろした。

「私も、ちょっと取り乱しました。びっくりして」

元の体勢に落ち着いた二人は、どちらともなく深く溜め息をついた。

「現実の時間にお戻りになりたいですか」


そうであれば、明日の夜ならお戻りになれます──掻き回された頭で、左記子は説明を続ける遠藤の口許をぼんやり見ていた。そして、この男の口の空洞は、ああそうだ、ブラックホールに似ているんだ、などと考えていた。

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