第6話

【ご】



美しいものと醜いもの。

確固としたものと儚いもの。

永遠と一瞬。

正常と狂い。


正常と狂いの狭間の狭間──。


ワンピース型の紺色の制服は、丈が膝下にまで届くクラシカルなデザインのものだった。胸元のベージュのタイや袖口のカフスといいチョコレート色の艶のある靴といい、どこかしら学生染みている。通っていた女子校に制服はなく、私服登校だったので余計に気恥ずかしい。 カートをゆっくりと押しながら、左記子は長くて狭い通路を進む。販売する物品の品揃えは思っていたより充実していなかった。飲み物とパン類、あとは何故かポストカード。それだけだ。潔いほどの貧相ぶりである。販促の呼びかけや声掛けも必要ないとのことだった。むしろしてはならないと指示されていた。それで左記子は手押し車を押してのろのろと散歩をする老婆のごとく車両内を往復するのだった。当然売り上げは芳しくない。一日に四つ五つ売れれば上等、といった調子だ。けれども遠藤はそれが良いのだという。

「車内販売がある、というその事実が重要なのです。なければ寂しいでしょう。かといって、車内での時間を楽しむお客様の気を散らすのもよろしくない」

それならば押すたびに軋むこのワゴンも是非とも新品に変えて欲しいものだと左記子は思うのだが、面倒なので黙っている。

遠藤はああ言うが、元々がら空きのこの車内で、こんな仕事が本当に必要なのかと思う。甚だ疑問ではあったが、それはそれとして左記子はこの仕事を気に入っていた。

勤務自体は本当に三時間程度で終えることが出来て、あとは全くの自由時間だった。“この場所で”自由というのが、堪らなく良かった。日々の業務を終えて制服から着替えると、左記子はどこでも好きな座席へ座った。只々景色を見つめ続け、そして焦がれた。毎日毎日、ひたすら美しいものを見る。猛々しい山の雄大さや、深い谷底の未知、こじんまりとした町々から感じる人々の息遣い。頭の中はそれらにまつわる思考で忙しく回っている。ほんとうにどこにも属さない。それぞれの表面、綺麗なところだけをなぞる。夜は“隣町銀河”を堪能してそのまま座席で眠ってしまうこともあった。遠藤は好きなようにさせてくれた。必要外のことをあれやこれや言ってくることは無かった。

景色を見ながら、たまに学生時代のことを思い出した。“左記子ちゃん”を、可愛く小綺麗に整えて、自分を埋めた日々のこと。

実力の伴わないものを賞賛されることほど、不安なものはない。

自分では評価されるほどのレヴェルを有していないと判っていながらも、評価されるそれに対してある程度その気になってしまう。そしてそれをこれからも裏打ちするために結果を出そうと必死になる。そうしてだんだん周りと自らの虚構に操られてゆく。あのとき左記子をかわいいと言ってくれた母やクラスメート達は、今の左記子をどう評するだろうか。

──梅渓さんは?

思わず背筋を伸ばした。在学中は挨拶程度しか交流のなかった梅渓ハツ。“かわいい左記子ちゃん”に何の反応も示さなかった梅渓ハツ。それが却って、左記子の心を掻き立てた。今のこの左記子を見ることがあったなら、ハツは左記子に何かコメントしてくれるだろうか。


ここで働き始めてからから一体どのくらいの月日が経ったのか。

もう把握することさえ諦めて久しい。毎日ワゴンを押し、毎日隣町銀河を眺め、そして眠る。電車を降りよう、という気にさえなったことはなかった。

美しいものと醜いもの。

確固としたものと儚いもの。

永遠と一瞬。

正常と狂い。

ここにずっといれば何にも煩わされることはない。そうすれば、美しいもの、確固としたもの、永遠に続くものだけ手に入るのだ。だから左記子は何も怖くない。何も。そして。

左記子は、いたって正常だ。

その日の夜も、左記子は座席で窓の外を眺めていた。やがて心地よい振動に眠気を催す。そのまましばらく微睡んだ。

夢に“左記子ちゃん”が出て来た。

相変わらず左記子に対してだけ優しくもかわいくもない。母も級友もいたけれど、左記子のことなど見向きもしない。

放っておいてもあちらから寄ってきたあの人たちが、見向きもしない。

胸の内がカラカラと鳴りはじめる。

早く“左記子ちゃん”を纏わなくちゃ、左記子は妙な焦りを感じる。けれど、なぜだろう、かわいい声が出せない。うまく笑顔が作れない。

後ろで誰かがカラカラ笑った。他でもない“左記子ちゃん”だ。

──みんなに飽きられちゃったねえ。だってもう左記子は、

──かわいくないもんね。

がたりと大きな音を立てて左記子は飛び起きた。

歯が鳴り、大量の汗をかいていた。窓に映った自分の顔を確かめる。指先が震える。

大丈夫。いつもの顔だ。かわいいかどうかは分からないけれど、高校生のときと何ら変わらない、いつもの顔。

大丈夫。左記子は大丈夫。

ため息を吐くと同時に、電車の速度が落ち始めた。どこかの駅に停車するのだろうか。目を凝らして夜の景色を覗いているうち、左記子は既視感を覚えた。

この景色を、知っている。

電車に乗り続けた左記子がいつか見たことのある景色、という程度のものではなかった。ここは、もっと近しいところ。うんざりするほど見知っているところ。

左記子の地元の町だった。

なぜ。 なぜ。

窓に映った自分の顔をまじまじと見つめながら問いかける。地元から遠く離れたどこかの町の私鉄で、ここと全く関わりのない路線に左記子は乗っていたのではなかったか。

でも、そう──。

遠藤と初めて会ったのも、この先の駅でのことだった。

やがて電車はこぢんまりとした駅で停車した。

皆橋駅。

──二十五時五分。

あのときと、高校二年生の夏休みのときと同じ。

息をほとんど潜めて、左記子は暗闇の奥の皆橋駅をひっそりと覗いた。あの頃と何もかも変わらないように見える。と、規則的に並んだホームのベンチから人影が立ち上がったように見えた。そして電車の扉のひとつに向かって進む。

──誰か、乗ってくる。

この町の誰かが。左記子は身を固くした。人影は扉の奥へするりと入り、電車は何事も無く再び動き出した。

心臓は持ちそうにないほど躍動していた。けれども、ただじっとしているほどに臆病ではない。結局好奇心が勝り、電車の振動音に紛れて左記子は人影が見えたあたりの車両へ移動し始めた。

ゆるゆる揺れる電車の中で、左記子もゆるゆる揺れながら進む。手摺から手摺へ、音をたてないように、慎重に、ゆっくりと。

この人は、皆橋駅が深夜に無料開放することを知っているのか。電車に乗る動作があまりに迷いのないものだったのが、左記子には意外だった。皆橋駅の深夜の無料開放の事実は、この町の町民に広く知られているとは思えない。知っているとすれば、どんな人物なのだろうか。

車両を三つほど移動したあたりで“その人”の頭が見えた。体躯はどちらかといえば小柄でほっそりしており、頭も小さい。Tシャツにジーンズで、男なのか女なのかよく分からないが、どうやら若そうだった。左記子は隣の車両の扉越しに慎重に覗き込む。

不意に、“その人”の横顔を見た。

キン、と耳鳴りがした。

がたがたと、不意に激しく電車が揺れだした。激しく揺れだしたのは電車だけではない。気持ちが高まるときに左記子の内でいつもカラカラ鳴っている落ち葉のようなものも同様に騒ぎだした。いや、もう落ち葉と形容できないかも知れない。まるで砂利のようにガラガラと騒ぎ立てている。

正常と。

狂いと。

これはどちらなのだろう。左記子と、この世界と、狂っているのはどちらだろう。

正常と狂いの狭間の狭間──。

左記子は音もなくずるずるとその場にしゃがみ込んだ。薄々気づいてはいた。左記子はおかしな世界へ入り込んだ。この私鉄の存在目的も、運行の仕方の不自然も、それだけではない色んなことが全部、全部。これまでその度に自分を誤魔化してきたけれど、今回はそうもいきそうになかった。


皆橋駅から電車に乗ってきたのは、梅渓ハツ──しかも、左記子が記憶している高校生のままの梅渓ハツだったのである。

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