第5話

【しい】



ワゴンはなかなかの年代物で、そっと押してもきゅるきゅるとにぎやかな音を立てた。


「失礼ながら、ここ何日かの様子から察するに、現在あなたは社会のどこにも属していないように見受けられます。そして、恐らく仕事にも就いていない」

駅員の姿の男が語るに任せ、相変わらずストールを握り締めて、否定もせず肯定もせず、左記子はただ黙って聞いた。なにか反論してもこの男には本当のことが知れているように思えた。

「しかもあなたは毎日違った駅で降りてゆく。ですから、住所も定まっていないのではないかと思ったのです」

お願いするのにちょうど良いと思った訳です──言いながら、男は自分で納得したように二度ほど規則的に頷いてみせた。

「三時間程度で良いのですが」

彼は機械のように単調に続けた。あわせて口許しか見えないので余計に機械めいて見える。

「但し毎日」

「なにを──ですか」

事態のあやしい展開に、それでも左記子は去ることが出来なかった。

「ここで、車内でですが。住み込みで働いていただきたいのです」

予想もしていない言葉だった。

昔から電車で暮らすようになったらどうだろう、と考える事があった。つまり、非日常が日常になったらどうだろうと考えるのだ。どこにも縛られない、どこにも依存しない、けれどもどんな場所に行っても必ず安心できる電車内テリトリーに住めて、外で何があっても影響を受けない。次々に美しいものを見て、それが途切れることなくて、続けていれば左記子も左記子を美しいと思えるようになるかも知れないと思った。

たぶんそこでは時の流れも違うのだろう。年も取らないだろう。

そんな事有り得ないけれど。馬鹿げている。

馬鹿げている──と、思っていた。

思っていたけれど、心のどこかで諦めきれなくて、だからこそ町を出て以来半分お伽話のようなその生活の真似事を続けていたのだ。もうひと月は経つだろうか。けれどやはり、終電間際には電車を降りなければならないし、毎日泊まるホテル代も気になっていた。電車に乗っている間は楽しく心燥いでも、そこはやはり現実、つまり『非日常』ではなく『日常』だった。

飛んで火に入る夏の虫。

あれは、光が恋しい羽虫がそれに引き寄せられて火に飛び込んでいるのではないそうだ。強い光に当てられて、おかしくなってしまうのだと聞いた。

本来は月明かりで充分なのに、それより何倍も強い火や電灯の明かりに当てられて本来の感覚が麻痺し、自ら身を滅ぼすものに飛び込むのだと。

目の前がぐらぐらした。今左記子に提示されている提案は、その“強い光”のようだった。

もし、それが現実になるのなら。あの隣町銀河を眺めながら眠りに就けるのなら。

「やります」

ほとんど反射的に左記子は答え、やります──と語気を強めた。


「最後尾の車両が、住み込み用の部屋になっているのです」

無論住むのはあなた一人ですが──男は白色蛍光灯の明かりが眩しい車内を縦断しながら左記子に細々したことを説明していった。勤務は毎日、給与は手渡し、制服貸与、食事付き。勤務内容はこの私鉄の車内で軽食などを販売すること。つまり、車内販売だ。

「見たことないです」

左記子は男の背中を追いかけながら一抹の不安をおぼえた。

「普通列車の車内販売なんて、今まで見たことないですけど」

「居ますよ、居ます。少なくとも当電鉄ではやっていますから」

「でも、ここでも見たことなかったです」

「──ですから、あなたに声を掛けました」

ここです、とそこで男は歩を止めた。車両の最後尾に辿り着いていた。

遠藤と言います、彼は告げた。

「当電鉄の管理者兼責任者です。普段は駅員をやっています」

「あの、じゃあ車掌さんは」

「当電鉄は独自に開発した自動運転システムATTを採用しています。なに、大丈夫です。安全性は折り紙付きです」

「あの」

「今日はもう遅いので、細々としたことは明日お伝えします」

男──遠藤がやおらにこちらに体ごと向けてそう言ったので、左記子は思わず怯んだ。

「私は通いですので、もう出ます。部屋の使い勝手は見ていてだければ分かると思いますから」

左記子がおずおず頷くのを確認すると、それでは、と軽く会釈をして遠藤は近くの扉からあっさり出て行ってしまった。

左記子はようやく溜めていた息を吐き出した。吐き出すと、急に脱力した。

好きに生きなさい、と祖母は左記子を送り出した。

その言葉に後押しされて、左記子は左記子のやりたいようにやってきた。まさか電車で日々を暮らす、という憧れが叶うとは思わなかったけれど。けれど少しだけ、とてつもない奇妙な世界に入り込んでしまったのではないかと、そんな不信感もあるにはあった。

「いいの、いいの」

自分を説得させるように独りごちる。それならそれでいい。“左記子ちゃん”を誰かのために演じる必要のない、閉じられているのか開かれているのか分からないこの環境で、浮世離れしている存在になるのも悪くはないだろう。

キャリーバッグの持ち手を握りなおして、最後尾の車両に通ずる扉を開けた。一番奥の真正面にさらに小さな引き戸の扉があり、『職員用 仮眠室』とのプレートが掲げられていた。その手前には狭く短い通路を挟んで右にひとつ、左にふたつの扉があった。全ての扉にプレートが掲げられており、左側のプレートはそれぞれ『職員用 手洗い』『職員用 シャワールーム』と表示されていた。

左記子は『倉庫』とのプレートが掲げられている右側の引き戸を開けてみた。開けた瞬間、段差というか切れ目というか、上手くは言い表せない静かな違和感を感じた。猫除けのために独特の周波数を出す装置を庭に置く家があるが、そこに足を踏み入れてしまった時の耳にキンとくるあの違和感に似ていた。

月明かりにぼんやり浮かび上がった中の様子は別段特殊な印象はなく、ごく普通の用具が置いてあるように見えた。

慎重に中に入ってみる。

電気を点けると、違和感はすっかり身を潜めてしまった。一番目立つところにキャスター付きのワゴンがある。車内販売に使うものだろう。金属製のハンドルがひやりと冷たい。


ワゴンはなかなかの年代物で、そっと押してもきゅるきゅるとにぎやかな音を立てた。

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