第4話
【さん】
飛んで火に入る夏の虫あるいは蛾の火に赴くが如しという。
あまりに甘やかに魅惑的で、危険と分かっているのにみずからその災難に飛び込んでしまう。左記子は、帽子のせいで見えるか見えないかになっている駅員の目玉を必死に覗こうとした。少し思い出しかけていた。
夜だからだ。
夜だからこんな気持ちになる。そして思い出し、引き摺り込まれる。『また』。
「あの、前に、会ったことありましたか」
「皆橋駅で」
駅員は顔色を変えずにこともなげに答えた。
皆橋駅とは、左記子の地元の町にある小規模な駅だ。実家からの最寄駅で、ここから左記子は三年間、来る日も来る日も高等学校に通った。これが不思議な駅だった。いや、通常通り使っていれば至って普通の駅なのだ。問題は、夜。しかも二十四時を優にまわった深夜の駅である。皆橋駅は、深夜一時を過ぎると駅を無料開放するのである。
「あのときに、私に声を掛けた駅員さんですか」
駅員が丁寧に頷くと、左記子は完全に記憶を取り戻した。
当駅をご利用ですか、と左記子は背後から声を掛けられた。
家を抜け出して無為に夜の散歩をしていた、高校二年生の夏休みのことだ。左記子はぞっとして振り向いた。誰も外にはいないだろうと思っていた、車すら通らない田舎の深夜一時、皆橋駅の前である。振り向いて目に入ったのは、駅員の格好をした異様な空気を放つ背の高い男だった。駅はとっくに明かりを落としているし、すでに駅員もいないと認識していた。それなのに、こんな夜中に制服に身を包み、しかも実年齢より幼く見える左記子のような少女にこのように声をかける。さすがに左記子も身の危険を感じた。
“左記子ちゃんは、かわいいから”。母がよく言う聞きなれた言葉だったけれど、“だから気をつけてよね”と言う意味も含まれていることも薄々分かっていた。分かっているつもりだったけれど、こういうことか、と初めて実感したのがその時だった。“左記子ちゃん”は本当に左記子以外にはかわいく見えていて、それ故に引き寄せてしまう危険なものも実際にあるのだと。この男は異常な性癖かなにかを持っていて、それ故に妙な格好をして町を夜な夜な徘徊し、無防備な女性を狙っているに違いない、そう思った。襲われたら、ひとたまりもない。華奢な左記子ではこの大男の腕力に到底敵わない。
当駅をご利用ですか、男はまたそう尋ねた。左記子がただ固まっていると、それを肯定と捉えたのか、更に駅の方に手を差し伸べてどうぞ、と促した。同時にかすかに電車が線路を走る振動音を聞いた。
「じきに、来ます。二十五時五分発です。乗り遅れます、急いで」
灯りもついていないホームへ左記子を促す。たまらず左記子は駆け出した。そう、ホームの方に。辿り着くと、小高いホームに本当に電車が入って来た。煌々と蛍光灯の明かりを点けて。
ただひたすら駅員の格好をした男が怖くて、夢中で左記子は乗り込んだ。すぐに電車は動き出す。窓から外を確かめると、先ほどの男が深々とお辞儀をしていた。
あの人は本当に駅員だったのか、とあれから幾度か左記子は考えた。けれど、思い出す頻度も時経つうちに少なくなり、そのうちすっかり忘れてしまったのだった。あんなに強烈な出来事であったにもかかわらず。
そうして今、再び強烈に思い出す。この胸騒ぎはなんなのだろう。左記子は拾い直したストールを固く握り締める。なぜか目だけは男から逸らせない。
駅員の格好をした男はおもむろに口を開いた。
「もし良ければ、あなたにお願いしたいことがあるのですが──」
開いた口から生じた穴は、鯉が水際からぽっかり開ける口の底なしさに良く似ていた。
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